北谷町の町田宗孝さん、戦死した姉3人を慰霊

 6月23日は「慰霊の日」。1945年の同日、陸軍の第32軍を率いた牛島満司令官が自決し、沖縄戦の組織的な戦闘が終結したとされる。自宅が将校の宿舎となるなど軍人との交流があり、また、姉3人を戦争で失うなど、壮絶な沖縄戦を経験した北谷町在住の元医師、町田宗孝(そうこう)さんに話を聞いた。(聞き手=沖縄支局・豊田 剛)


壮絶な沖縄戦を振り返る、自宅に将校を迎え交流

北谷町の町田宗孝さん、戦死した姉3人を慰霊

北谷町の町田宗孝さん(豊田剛撮影)

 ――町田さんは沖縄戦当時、小学校低学年だったが、何か思い出はあるか。

 小学1年の時だった。戦争のための飛行場造りがあちこちで行われ、小学生であっても動員された。滑走路の誘導路の整備のために土砂を運んだり、芝生を植えたりした。

 1944年の4月か5月頃、日本軍の調査隊が駐屯するということで、将校が北谷(ちゃたん)のわが家を訪れた。母や姉らは不在で、祖母と私とで留守を守っていた時だった。私の実家は幸いにして大きかったので選ばれたのだろう。サトウキビを刈って、食べ方を教えてあげたことを覚えている。

 ――その将校はどのような人物だったか。

 将校は少尉で松島隊長と言ったが、部下には厳しかった。一方で、私の家族にはとても優しかった。夕食の時間、夕涼みしながらいろんな話をしてくれたことを覚えている。

 隊長は日清戦争から引き揚げた際に持ち帰った戦利品の拳銃を自慢げに見せてくれた。また、五右衛門風呂が気に入っていた。わが家が手伝いすることなく、下士官らが準備していた風呂に入らせてもらったのはよい思い出だ。

 ――隊長が住民に何か指示・命令するようなことはあったか。

 住民が怖がることは何もしていない。国のために戦っている人として、私たちは同情し、応援する気持ちがあった。

 ただ、私がこっそりと下士官の兵士に食べ物を差し入れしたりしたことがあったが、それが見つかって、彼らが上官に怒られることもあった。

挺身隊や看護隊として戦死した姉、毎年戦跡を巡って慰霊

北谷町の町田宗孝さん、戦死した姉3人を慰霊

沖縄戦の思い出を話す町田宗孝さん(右)と、それを見守る次男の宏さん=沖縄県北谷町(豊田剛撮影)

 ――米軍が迫ってきても疎開しなかった理由は。

 教師だった2人の姉が職場を離れることができず、もう一人の姉は女子師範学校に行っていた。母一人で当時75歳の祖母と幼い妹、そして小5の姉と私を連れて国頭(沖縄本島北部)まで歩いて避難することは困難だった。

 ――米軍が上陸し、投降するまでの様子は。

 3月下旬に米軍が慶良間諸島と沖縄本島を包囲し、艦砲射撃と空爆を始めた。住民は海岸から一里(約4㌔)以上離れた内陸に避難するよう指令があった。4月1日に米軍は沖縄本島に上陸した。私たちにも死が迫っている恐怖があった。

 親戚が寄り合って堀った防空壕に隠れていたが、母親は包丁を持っていた。米軍に見つかった時に備えてのものだ。当時は、捕虜になることは最も不名誉なことだという考えがあった。

 4月3日、ついに米兵に見つかった。銃を突き付ける瞬間は死の恐怖があった。ただ、母はどうせ死ぬのなら敵兵の手にかけられてかまわないと思い、自決をとどまった。

 長女ツルと次女トヨはそれぞれ6月21日と24日、当時は教師で青年挺身隊として南部戦線を転戦している間に被弾して死亡した。三女トシは、ひめゆり看護隊として動員され、6月19日、喜屋武(きゃん)村(現在の糸満市)で戦死した。

 ――慰霊の日はどう過ごしているのか。

 1966年に沖縄に戻って以来、3人の姉を追悼するため、毎年欠かさず、糸満市摩文仁で行われる県主催の全戦没者追悼式に参列し、ひめゆりの塔、魂魄の塔、三女が亡くなった山城地区、白梅の塔を巡っている。

 昨年は新型コロナウイルス感染の影響で自粛をお願いされたが、現地で慰霊した。今年も沖縄県は緊急事態宣言下にあるが、これまで通り戦跡を巡って慰霊を行う。

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町田宗孝(まちだ・そうこう)さん

 1937年、沖縄県北谷村(現在の北谷町)生まれ。62年、昭和医科大学を卒業し、66年に北谷町に町田小児科を開院。2001年に閉院すると、長男の孝さんが開院したまちだ小児科医院、14年からは次男の宏さんが開設したまちだクリニックに勤務。その間、沖縄県医師会、中部医師会の役職を歴任した。


平和祈念像救った父・宗邦さん、医師一家の歩みを一冊の本に

 沖縄本島中部の北谷町で3月末まで現役で医療現場に立っていた町田宗孝(そうほう)さんは今年1月、同じく医師だった父・宗邦さん(享年74)の人生を中心に、町田家の歴史をまとめた「町田家史誌」を発刊した。

 宗邦さんは21歳で陸軍に志願し、除隊後に上京。警察官として働きながら弟3人の学費を支えた。1941年から43年まで第25代の沖縄県知事を務めた早川元・警察署長に「弟の3人も成功させた日本一の立志伝」と言わしめた人物だ。

 帰郷後は医学の道を目指し、中国山東省の医学校に合格し、1953年に沖縄市に開院した。常に人々や地域のために生きる姿から、地域ではいつの間にか「神様」と呼ばれるまでになった。

 平和祈念公園にそびえる白い塔の平和祈念堂内には、平和祈念像がある。この平和のシンボルは山田真山画伯によるものだが、像制作のためのアトリエの改築資金として1万㌦の小切手を贈ったのも宗邦さん。これがなければ、祈念像は未完のままだった可能性も指摘されている。