夫婦別姓論議の盲点 子の姓より親の権利
推進論煽るメディアの欺瞞
このところ、婚姻制度をめぐる議論が活発だが、その特徴の一つは、結婚する当事者のみの視点に偏ってしまっていることだ。婚姻制度を考える場合、当事者の幸福はもちろん大切だが、生まれてくる子供の幸福をどう考えるかということも重大な論点である。しかし、それを脇に追いやって進める議論は、「個人の尊重」ばかりが強調される戦後の価値観の反映だろう。婚姻制度論議の特徴というより“歪み”と言うべきか。
社会の将来を担う子供の視点が置き去りにされている論議の一つに、選択的夫婦別姓の是非がある。月刊「新潮45」2月号は「偽善の逆襲」と銘打った特集を組んで、世にはびこる偽善の数々を一刀両断する小気味よい論考を並べている。
現代史家の秦郁彦はその特集に、論考「『子供の姓』を論じない夫婦別姓論議の欺瞞」を寄せ、子供を「最大の利害関係者」としながら、別姓論者たちが子供の姓をどうするのかという課題に「正面から向きあわないこと」に不満を表明。「子の姓を解決しないかぎり、別姓論は成りたたない」と断じているが、卓見である。
夫婦別姓推進論者はこの課題から目を背ける理由を探れば、別姓にすると、子供の姓の取り扱いがややこしくなり妙案が出ない。由緒ある姓を残したいと夫婦別姓にしたところで、子供のうちの誰かがその姓を名乗らなければ一代限りの延命にすぎない。その場合、兄弟姉妹で名前が違ってもいいのか、父方と母方の姓をどう振り分けるのかなど難題が浮上する。
昨年末、民法の夫婦同姓規定をめぐる訴訟で、最高裁は夫婦とその子供が同じ姓にすることの意義を積極的に認めるとともに、結婚で姓を変える不利益は旧姓の通称使用が広まることで緩和されているとして「合憲」の判断を示した。
そうなると、夫婦別姓推進の論拠は個人のアイデンティティーと世論の変化ということになるが、個人のアイデンティティーという視点はまさに子供の立場よりも、大人の権利を優先することになり、説得力を欠く。
もう一つの世論だが、最高裁が合憲判決を下したあとも、別姓導入に執着する新聞・テレビの多くは、今や夫婦別姓容認派は国民の半数に達しているという趣旨の報道を行っている。その主張の論拠は世論調査だが、その数字の分析にメディアの欺瞞が潜んでいる。
夫婦別姓報道で、メディアがよく利用するのは、平成24年の内閣府の世論調査だ。この調査によると、夫婦同姓を規定した現行法を「改める必要はない」が36・4%。一方、結婚しても、希望者が旧姓を名乗ることができるようにするため法改正することは「かまわない」が35・5%だった。
この二つの数字を比べると、なるほど世論は拮抗しているように受け取れる。しかし、選択肢は三つあって、もう一つの選択肢への賛成者を見ると、まったく違った全体像が浮かび上がってくる。
その選択肢とは、夫婦は同姓であるべきだが、婚姻前の姓を通称として使えるように法律を改正すること。この問いに「かまわない」とした割合が24・0%あったが、これを無視する報道が多いのである。
この第三の選択肢は現行法改正への賛成者であっても、別姓支持派ではなく、同姓支持派である。したがって、世論は夫婦同姓支持派が多いのが実態である。また、夫婦別姓にするための法改正支持派に、実際に改正された場合、婚姻前の姓を名乗ることを「希望する」とした人は23・5%しかいなかった。
さらに、秦の論考の本筋に関わる子供への影響についての設問もある。調査では、夫婦別姓になった場合の子供への影響についても質問しており、その結果は「好ましくない影響があると思う」と答えた割合は67・1%に対して、「影響はない」28・4%で、子供への悪影響を懸念する人が圧倒的に多くなっている。
こうした調査を総合的に分析すると、「偽善だらけの別姓論は破綻したも同然と見てよいのではないか」というのが秦の結論である。最高裁で敗北した別姓推進派は今後、国会を舞台に戦うつもりのようだが、それを後押しするメディアの欺瞞にも警戒を要することを明確にした秦の論考である。(敬称略)
編集委員 森田 清策





