SNSと社会の分断、若者に安易な二項対立論
“被害者”側に立つことが流行
インターネット選挙運動が解禁されてから8年が経ち、ツイッターなど交流サイト(SNS)が選挙戦で重要な位置を占めるようになっている。しかし、SNSをのぞくと、候補者や政党への中傷や激しい攻撃が珍しくない。若者の投票率が下がる傾向にある中、政治に関心を持って真摯(しんし)に情報を送受信する若者が増えることは歓迎できるが、中傷や誹謗(ひぼう)は社会を分断させる懸念がある。
メディア環境の変化が日本人、特にSNS利用の多い若い者にどんな心理的な変化をもたらしているのか。この問題に関して、示唆に富んだ対談が「Voice」11月号に載っている(「日本政治が迷い込んだ隘路と突破口」)。語り合ったのは、日本思想史家の先崎彰容(せんざきあきなか)(日本大学教授)と社会学者の開沼博(かいぬまひろし)(東京大学大学院准教授)。
同じような考えの人間がSNSでつながり、ネットワークを構築すると、自己の考えや内面が強固な信念となるだけでなく、悪くすると独善となる危険性があることはよく指摘されることだ。
福島県いわき市出身で、「『フクシマ』論」などの著書を持つ開沼は、近年の選挙でSNSや世論調査が影響力を強めることによって、「大衆のまなざしの上(うわ)っ面(つら)が強迫的に可視化されている。人びとの無意識の声までも可視化するとされる、ビッグデータなどのテクノロジーも急発展」する一方で、「為政者はそれに即座にレスポンスすべき、という空気も強まっている」と述べている。ポピュリズムや衆愚政治にさらされているような不気味さを感じる。
開沼はさらに、このメディア環境によって自分とは違った「外部」へのまなざしを失い、「『外部』の言説が淘汰(とうた)された先に残るのは、白か黒かという安易(あんい)な二項対立論ばかりでしょう」とみる。SNSに独善的・排他的な言説が目立つのは、このあたりに原因があるのかもしれない。
社会の分裂を避けるため、「外部」についての情報を国民に与えて、自分と違う立場の人や弱者の存在を伝えてその内面についての理解を深めることはメディアの役割の一つだが、逆に、そのメディアが偏った情報を流して二項対立を煽(あお)るという残念な現実もある。
亀裂を深める社会の中では、他者により攻撃的になる人間と、精神的に追い詰められて内にこもる人間が出てくる。SNSで誹謗中傷が激しくなる一方で、女性の自殺や引きこもりが増加するのはこの社会状況を端的に表している。
SNSをはじめ個人が情報を送受信するメディア環境に、新型コロナのまん延が重なり、精神的な余裕を失いかける日本人は少なくない。この状況に関して、「国家の尊厳」などの著書を持ち、最近メディアへの露出が増えている先崎は「したたかに生きるためのつかの間の休息が五輪だった」と、東京五輪開催の意義を強調した。五輪開催をめぐっては「成功だった」「失敗した」と大きく意見が分かれているが、「テロなくやり遂げたことは、それだけでも大きな成果なわけです」と語り、東京電力福島第1原発の処理水の海洋放出や不妊治療に対する助成金などとともに菅義偉・前政権の実績に挙げた。
では、二項対立を避けて社会を安定させるために必要なことは何か。先崎は「互助的な組織」を挙げ、開沼も「新しいコミュニティ」を考えるべきだ、と共通認識を示す。国家と個人の間に中間集団を形成し個人が埋没しないような「したたかさ」が必要だという。無理に白黒決着をつけるのではなく、現実を受け入れて、協調や共存のための知恵を絞るときには、歴史や伝統の発掘が欠かせなくなる。この寛容の姿勢は保守の神髄である。
このしたたかさに関連し、開沼が興味深い指摘を行っている。若者の間で「被害者側に立ち位置をとること、そしてそこに依(よ)ることが一つの流行文化になっている」というのだ。そして、それが若者の「アイデンティティ」になり、「皮相的に被害者ポジションをとることがコミュニケーションの手段になっている事実もある」という。ネット上で誹謗中傷が氾濫(はんらん)するのは、被害者ポジションから「外部」を攻撃する若者が増えていることの証左と見ることができるのではないか。
被害者ポジションを取る若者が増えているのは世界的な風潮でもある。6月26日付の本欄でも紹介したが、米スタンフォード大学シニアフェロー、フランシス・フクヤマは自身の講義受講の応募書類を見ると、学生に自分を性的少数者(LGBT)と見なしたがる傾向があるとした上で、「被害者集団の一員であるのはよいことだと考える。そんなふうに自分のアイデンティティをとらえるのが普通になっている。この風潮がもたらす結果は思ったより深刻かもしれない。反発が起きる可能性もあります」と憂慮している(「中央公論」7月号)。
個人や組織の問題行動や発言を取り上げて、解雇や企業の製品をボイコットするだけでなく、社会的な“抹殺”もためらわない「キャンセル・カルチャー」の風潮を目の当たりにしている若者たちが、社会から排除されることへの恐怖心からそんな選択をしているのだろう。
一方、ニューズウィーク日本語版(ウェブ版)によると、米国のミレニアル世代(1984~2002年生まれ)のうち、自分はLGBTだとした人の割合が30%と、年長世代の3倍以上に達するという(アリゾナクリスチャン大学などの調査)。3割に達するというのは驚きの数字で、もはや少数派や弱者とは言えない状況だが、被害者ポジションを取ることがファッション化し、ブームとなっているとしか思えない。この傾向は日本でも見られ、LGBTの割合を調査すれば、若い世代ほど多くなっている。
先崎は「被害者意識を植え付け、煽(あお)るのは、じつは『正義の強制』という暴力なんですよ。原発被害者であれLGBTの人たちであれ、彼らを『弱者』と規定し被害者であるとみなすのは暴力なのです。リベラルな善意への僕の違和感の原点は、ここにある」と警告する。
個人の自由や人権が強調される戦後教育の中で、国家や先祖を意識する機会がほとんどなくなってアイデンティティーの喪失という問題を抱える若者が「いまでは『自分』を意識するのは、被害者であるとか、SNSの評価であるとか、個人的かつ瞬間的なものに埋没(まいぼつ)してしまっている」のである。
この袋小路から抜け出すにはどうすべきか。解決策を見いだすのは容易ではないが、開沼が指摘したように、「外部」へのまなざしを取り戻し、それぞれの現場でしたたかに生きる人たちと向き合うことがカギとなるのではないか。
編集委員 森田 清策





