“朝日応援団”の視点、固執する「国家=悪」論
国民と対立するものとして描く
批判側の新聞は「権力サポーター」?
いわゆる「吉田証言」「吉田調書」に関する朝日新聞の誤報問題で、同社の木村伊量社長が謝罪会見を行ってから、もうすぐ2カ月になる。月刊誌の11月号には、10月号に続いて朝日問題をテーマにした論考が並ぶが、朝日の誤報、そして誤報を生んだ朝日の体質に対する批判については小紙の「メディア・ウォッチ」やこの欄でも取り上げてきたので、ここでは逆に、朝日の誤報に対する保守派の論調を「朝日バッシング」と表現しながら、誤報よりもそれを批判する側を問題視する論考を取り上げてみたい。
こうした論考については、ライターの辻堂雄一は「人徳というべきか、朝日新聞には今なお応援団が多く存在している」(「朝日新聞が怯える『今そこにない危機』」=(「新潮45」)と揶揄(やゆ)しているが、左派ジャーナリズムの歪(ゆが)みを表しているのも事実だ。
それは、国際大学学長の北岡伸一が「朝日新聞を代表する日本のリベラル系のメディアは、『権力対人民』という視点から物を見ることが多い」(「政府の向こうには世界がある――鎖国思考を脱するとき」=「中央公論」)と指摘するように、“朝日応援団2がその思考の軸に据えるのは、国家(権力)と国民(人民)を対立するものと描くステレオタイプの構図である。
そして、誤報を行った朝日は悪いが、権力批判がジャーナリズムのあるべき姿なのだから、反権力の朝日を批判して、政府が喜ぶような紙面作りをする新聞は、ジャーナリズムを危機に陥れているとの論を展開。その報道機関の代表が産経新聞と読売新聞というのである。
たとえば、「創」は「激しい朝日新聞バッシングが今も続いている」との現状認識から行った座談会「朝日バッシングの裏舞台と行方」を行っている。その中で、ジャーナリストの青木理は「原発事故をめぐる吉田調書の誤報ですが、あれは背後で官邸が仕掛けたフシがある。つまり、慰安婦問題でつまずいた朝日にもう一発パンチを喰らわせてやろうと考え、産経、読売に抜かせて、共同にも書かせて、となったのではないか」と語っている。
さらには「安倍首相や周辺にいる人たちは、朝日的なリベラリズムが大嫌いで仕方ない。これは一種の権力闘争ですよ」と、権力闘争説を展開する。青木は「世界」に寄稿した論考「朝日バッシングの背景と本質」でも「事実は確認できないが」と断りながらも、同様のことを述べているし、テレビの討論番組でも語っている。よほど権力闘争説が好きなようだ。
青木ばかりではない。弁護士で脱原発弁護団全国連絡会共同代表の海渡雄一は「おそらく官邸から提供された吉田調書にもとづいて、産経新聞や読売新聞が朝日報道へのバッシングをはじめ、他の報道機関もこれに巻き込まれていく中で、今回の朝日新聞社社長による謝罪会見となった」(「日本はあの時 破滅の淵に瀕していた」=「世界」)と指摘した。
一読すれば分かるように、青木と海渡の主張は、推測にすぎない。これでは論争にならない。しかも、たとえリークした側に意図があったとしても、それは何も特別なことではない。リークとは、常に思惑があってなされるものだからだ。最初に吉田調書を朝日にリークした側にも何らかの意図があったはずで、重要なのはそうした意図に振り回されることなく、事実を正確に伝えること。それがジャーナリズムの役割である。
したがって、まず問うべきは朝日と、あとから報道した産経、読売のどちらが吉田調書を事実に沿ってより正確に読者に伝えたか、である。その点で決定的な過ちを犯したのが朝日だ。それがその後の朝日批判につながっているのである。推測や憶測から官邸が産経、読売にリークしたとするのは、国家=産経・読売=悪というレッテル貼りを狙ってのことだろう。
また、「朝日はまだ必要な新聞だと思っています」という元共同通信編集主幹の原壽雄は「今の日本のジャーナリズムは対立というより分裂といった方が良い状況です。本来なら足並みを揃えて権力ウォッチをしなくてはいけないのに、読売・産経の権力サポーター派と朝日・毎日・東京の権力批判派に分かれてしまった」と語る。権力監視がジャーナリズムの役割であることは間違いないが、相互批判によって新聞の暴走を防ぐことも重要である。権力批判に固執して足並みを揃(そろ)えることより、むしろ批判しあったほうがジャーナリズムとしては健全ではないのか。
こうした意見に対して、原は「ジャーナリズム間の相互批判が始まったと善意に解釈する人もいるけれど、中身の激しさから見ると、相互批判を越えている。ドラスティックな喧嘩、まさに『闘い』ですね。私は『日本国内の内戦が始まった』という言い方をします。武力を持たない内戦です」と語る。これは大仰な言い方だが、見方を変えれば、言論活動が「闘い」であることは間違いないのだから、朝日問題をめぐる現在の言論界は、否定すべき状況ではないだろう。問題は、何のための闘いなのかであり、それを「国益のため」と言うと、反射的に「悪」とするのは左派の性(さが)である。
この点、北岡は、前出の指摘のあとに続いて、示唆に富んだ意見を述べている。少し長いが引用する。
「人民の側、弱者の側に立った報道をする。それ自体は立派なことであり、必要なことである。しかし、そういう視点だけでよいのだろうか。政府や権力を攻撃し、徹底して縛ってしまったら、どうなるだろうか。政府の力が弱まれば、外国との競争に後れをとることもあるし、国内では、震災時の救援活動が不十分となる可能性もある。
国益のために筆を枉(ま)げろとは言わない。しかし、政府の向こうに外国があり、世界があることを忘れてはならない」
つまり、政府が弱体化すれば、結局困るのは国民というわけだ。政府=悪、国民=善との単純思考から、日本のジャーナリズムが卒業する時に来ているということなのだろう。
もう一つ、「創」は9月16日に開催された院内集会「もの言えぬ社会をつくるな――戦争をする国にしないために」の呼び掛け人の一人である参院議員、福島みずほの発言を掲載している。
その中で、福島は「吉田証言の問題を持ち出して、慰安婦問題それ自体をなかったかのように言う言説は、彼女たちに対する冒涜(ぼうとく)であり、彼女たちに対するセカンド・レイプだと思います」と語っている。しかし、ネット上は別として、筆者の知る限り、朝日の誤報を持ち出して「慰安婦はいなかった」と主張している言論人はいない。「強制連行はなかった」と言っているのである。これは論理のすり替えである。これも朝日応援団の論法の一つである。
最後に、こんな朝日応援団もいる。桜美林大学教授(元朝日新聞コラムニスト)の早野透だ。「『反日』『売国』『国賊』といった非難の言葉が飛び交うようになったのは知性の劣化としかいいようがない。朝日新聞が「反日」のはずがない。日本の悪かった部分を直視し、反省していくことはむしろ『愛国』だろう」(「改めるべきを改め、朝日の誇りを取り戻せ」=「中央公論」)。
朝日の報道は「愛国」と公言するOBが出てきたことを、この言葉を嫌う左派ジャーナリストはどう見ているのか。(敬称略)
編集委員 森田 清策