震災復興の阻害要因になる 新しい歴史教科書をつくる会会長 杉原誠四郎氏に聞く(上)
再考「政教分離原則」
震災復興の被災地で、自治体が整備した移転促進区域には、政教分離の原則から、寺社や墓地などの宗教施設は含まれないため、宗教文化と共にある地域共同体が崩壊しかねない事態が発生している。日本の宗教文化において政教分離をどう適用すべきか、近現代史に詳しい杉原誠四郎氏に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
復旧対象から除外される墓地/保護されるべき祭祀
宗教教育の意義認めず/社会主義の宗教弾圧内蔵
――被災地の復興事業において、政教分離の原則が阻害要因になっている。
東日本大震災の犠牲者に対する檀家寺の僧侶の死者儀礼が無造作に排除されたり、同じ災害を受けているのに、墓地の復旧は行政からの復旧工事の対象から外される例など、不当な差別の例は枚挙にいとまがない。警戒区域に住民が立ち入るのを許可するのは必要な生活用品を搬出するためのときはよいが、家族の遺骨を墓地に収めるのを認めるのは仏教を擁護することになるから認められないというような場合もある。
このような誤った政教分離の解釈が戦後の日本を席巻して、神社、仏閣に対して思わぬ差別が頻繁に起きている。
――どうしてそのような解釈になったのか。
浅薄な宗教理解と反国家的な憲法学が戦後の法学界を主導したことが大きい。その代表が宮沢俊義東大法学部教授である。
宮沢の宗教に対する浅薄な理解の典型は、現行憲法第89条の「公の支配」に属さない教育や宗教に公金を支出してはならないという条文の解釈だ。私立学校法および社会福祉事業法が学校法人および社会福祉法人に対して補助金や貸付金を与えるのは本条に反するとしたのだ。
さらに彼は「かりにこれらの法律が憲法本条に違反しないとしても、少なくとも宗教教育その他宗教的活動を行う私立学校に対して補助金を出すことは、本条前段によって違憲となされなくてはなるまい。これを裏からいえば、国または地方公共団体から補助金を受ける私立学校は、宗教教育はできない、と解さなくてはならない」(宮沢著『日本国憲法』)と述べている。これでは宗教弾圧の政教分離ではないか。
宗教教育の教育的意義をまったく解さず、信仰の自由を最大限に保障しようとする近代国家の本来の政教分離ではなく、社会主義の宗教弾圧を密かに内蔵する敵対的政教分離の解釈である。
現行憲法第89条は、政治権力が恣意(しい)的に特定の宗教に対する援助や支援をしてはならないという、政教分離の普遍的原理を示した規定である。しかし、公教育として行われる教育や宗教はその対象ではなく、宗教教育を行う私立学校も宗教教育を行わない私立学校と差別してはならない、と解すべきである。
私立学校において、道徳教育に替わるものとして、公に認められて宗教教育を行っている学校が公金による支援を受けられないというような差別があってはならないのである。
――宮沢は、占領軍によって否定される幣原(しではら)内閣の憲法問題調査委員会の改正草案作成の筆頭委員だった。
それまでの宮沢は、大日本帝国憲法はそれほど大きな改正は必要としないという考えだったが、彼の主導した憲法改正草案が否定されると、敗戦の昭和20年8月15日に革命が起こったとする八月革命説を唱え、それまでの憲法学の立場を放棄したのである。敗戦はしたものの、国家の主権は存続し、憲法も大日本帝国憲法の手続きを経て行われた以上、国家の持続は確かにあったにもかかわらず、宮沢は国家の継続を断つ解釈をしたのである。
すなわち、宮沢は占領軍という外国の権力に迎合し、国家の一貫性を考慮しない憲法学を創唱したことになる。つまり、法を考えるに当たって、法は国家とともに存在し、日本国は国家の持続の下にあるという観点を放棄した憲法学を打ち立てたのである。それゆえ安っぽい人権主義の憲法学になり、その結果は宗教に関する解釈に如実に表れている。
彼のような幼稚な憲法学からすれば、現行憲法第89条の「公金その他公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、これを支出し、又はその利用に供してはならない」の解釈により、全国の神社で行われる季節に合わせた地域の祭礼は行えなくなるではないか。神輿(みこし)を担ぎ、大道を練り歩くこの祭礼は、第89条の文言の表面上の意味をつなぎ合わせれば、明らかに憲法違反である。とすれば全国の神社の祭りはすべてできなくなる。
――そのような問題を憲法学者はどう判断したのか。
驚くことに、そんな深刻な問題があることに気が付かないようなふりをして、一言の記述もしなかった。
憲法第89条の正しい解釈は、神社が主宰する地域の祭祀(さいし)としての祭礼は、それを宗教行事として個人に参加を拒否する自由が保障されておれば、その社会性、公共性から、大道で行われても憲法違反ではない、ということである。宗教における祭祀の特殊的意義を認めた上でできている規定であるということだ。
――信仰の自由と宗教祭祀とのかかわりは。
憲法において信仰の自由を保障するとは、信仰の自由にかかわる宗派宗教とそれを擁する宗教文化とを合わせて保障するということである。個人の信仰の自由の対象となる宗派宗教の行為は、その宗派宗教の信仰者に対象が限られて行われているものと、宗派宗教の信仰者外の人をも対象にして行われているものとがある。
死者儀礼の例で考えると分かりやすい。死は自覚的に生きる人間にとって最大の宗教的事件とも言えるから、死者に対しては厳粛な儀礼が行われる。だから、故人の信仰した宗派宗教の死者儀礼でもって行われるのが通常だ。
だが、この厳粛な宗派宗教の死者儀礼は、他の宗派宗教の信仰者にも開かれて行われている。つまり、祭祀とは原則的に宗派宗教の行為として行われながらも、社会に開かれた行為であり、社会の宗教文化において独特の位置にある。そのことは世界のすべての宗教文化に言えることである。
信仰の自由は宗教文化とともにあり、信仰の自由の保障は宗教文化の存続の保障とともにあるとすれば、その宗教文化に独特の位置を占める祭祀に対しては、保護がなされなければならないということになる。
――刑法にもそうした規定がある。
日本の刑法の第24章には、神祠(しんし)、仏堂、墓所、その他礼拝所に対して不敬の行為をなすと罪となると明記し、説教、礼拝または葬儀を妨害してはならず、死体、遺骨、遺髪を損壊、遺棄してはならないとなっている。
自由主義憲法の下、宗教を大切にし、信仰の自由を最大限に保障するための政教分離のその憲法上の規定は、刑法におけるこのような規定も予定されて宗教文化の保護がなされていなければならないのである。