道徳教育に欠かせない宗教 教育評論家 棚橋嘉勝氏に聞く(下)

死は人生教育の場

 道徳教育の教科化が課題になっている。教育基本法第15条(宗教教育)では「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」とされているが、多くの学校では宗教教育に消極的だ。先週に続いて、宗教教育の必要性について棚橋嘉勝氏に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)

宗教心なくせば道徳喪失/「心の教育」の大切な基盤

政教分離は政治と宗教の分離ではなく政治と教会との分離

400 ――佐世保の女子高生殺害事件の背景には道徳教育の問題もあるのでは。

 教育の根幹をなすのが道徳教育ですが、実際には道徳の時間が軽視され、ほかの授業や行事に充てるという例が多く、形骸化しています。そんな現状を憂慮し、文部科学省は道徳教育に本腰を入れ、小中学校の道徳の在り方を「特別の教科」と位置付けしています。

 道徳教育の根幹にあるのが宗教教育です。宗教心をなくした社会からは、やがて道徳が失われていきます。人殺しがいけないことは、かつては教える必要がありませんでした。どの民族にも「殺すなかれ」という絶対的な戒めがあったからです。いわば超越者からの命令で、それを、「なぜ?」と考えだすと、哲学の迷路に迷い込んでしまうことになりかねません。

 最近、意味のない殺人事件を犯す若者が増えているのは、道徳の基本である宗教心を養う教育が、家庭でも学校でも行われていないことに大きな原因があるように思われます。

 昔は各家庭に神棚や仏壇があり、朝に夕にその前で手を合わせることによって、神仏を畏れ、先祖を崇拝する心を養ってきました。それが、人間として生きていくうえでの「心の教育」の大切な基盤となっていたのです。ところが、家庭から神棚や仏壇がなくなりつつあるのは、子供の心を育てる上で重大な問題となっています。

 浄土教の僧、源信は「三悪道をのがれて人間に生まるることは大いなるよろこびなり」と述べています。自分で「生きている」のではなく、「生かされている」という考え方が、宗教心の始まりで、宗教の一番大切な土台となるものです。

 しかし、今日では「生命の尊重」も忘れられがちです。華やかな物質文明の中で、生かされていることへの喜びも感謝の気持ちが薄れてきています。多くの人たちが、自分のみで生きていると過信し、人として生まれてきたことへの感謝の念などありません。人間としての生を受けたことに、神仏に感謝する気持ちがあれば、人に対する慈愛の念も生じてくるものを、その感謝がないので、人への思いも希薄になってしまっています。

 子供たちが宗教心や信仰心を持つことによって、優しさや思いやり、感謝と奉仕、礼節を身に付け、善悪や正義と不正義の判断力を高めることは、人間らしく生きる上で大切なことです。人間関係で嫌なことがあっても、“キレ”てしまわず、暴力を振るうなど人の道を踏み誤ることの歯止めとなる“心”を養うことにもなるのではないでしょうか。

 ――憲法も教育基本法も宗教の価値を認め、宗教教育は否定していません。

 しかし、現実には宗教系の私立学校を除いて、宗教教育はほとんど行われていません。子供たちが宗教について情報を得るのは、心霊現象や超能力を扱ったテレビ番組や、事件を起こした宗教を報じるニュースくらいです。

 その結果、子供たちは「死んでも生き返る」と思い込んだり、「宗教はいかがわしいもの」という偏見を持ってしまいます。これでは、私たちの先祖が営々として築いてきた宗教文化を断絶させるだけでなく、命について誤った考えを持ってしまうことになりかねません。

 憲法20条には「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と定められています。同じような規定は教育基本法にもあり、そのまま読むと、公教育での宗教教育は一切できないようですが、昭和22年の学習指導要領には、小学3年生の社会科で「神社・仏閣・教会で行われる年中行事を見たり、聞いたり、話しあったりする」と宗教教育の実践例が列挙されています。

 これは、当時のアメリカで普通に行われている教育を参考にしたからです。しかし、宗教系の私立学校を除いて、宗教教育はほとんど行われていません。

 政教分離は一般的に政治と宗教の分離と思われがちですが、アメリカ憲法にうたわれているのは、政治と教会の分離です。宗教一般を尊重するのは大前提で、その上で、宗派間の対立を避けるために定めたのが政教分離だったのです。

 自由民主主義の国は政治と宗教が親和的なことが基本であり、社会主義のように宗教を敵視するものではありません。公教育においても、特定の宗派や教団の利益、あるいは不利益にならない限り、宗教教育は行えるというのが、憲法や教育基本法の正しい解釈です。

 東日本大震災を契機に、人と人との絆が見直されていますが、亡くなった人とのつながりを大切にすることは、心の安定を保つ上でも重要です。命は私だけのものではなく、先祖から何代も続いてきたもの、子供から子孫へ何代も続いていくものです。そうした自然の営みからも、宗教的な情操を養うことは可能だと思います。

 ――宗教は人の死と深くかかわっています。

 そもそも宗教が生まれたのは、死者を悼む気持ちからだとされています。イラクで発見されたネアンデルタール人の骨には花粉が付着した跡があり、花を手向けたことが推測されます。「メメント・モリ」(死を想え)という言葉がありますが、死を考えることで、人間は心を発達させてきたといわれています。

 死は、一人称(私自身)の死、二人称(身近な人)の死、三人称(関係ない人)の死に分けて考える必要があるとされています。私自身の死は、生きている私が体験することはできません。関係ない第三者の死も、私に大きな影響を与えることはありません。問題なのは身近な人の死で、とりわけ深く愛した人の死は、残された者に大きなショックを与え、その死をどう理解したらいいのか深く考えさせられます。

 お盆やお彼岸、命日などには、亡くなった人のお墓に子供とお参りするのも、家庭でできる大事な宗教教育です。亡くなった人たちへの祈りは私たちの心を高め、行動を正してくれます。そうした宗教性の基になるものを培うのが家庭教育です。それには、親自身に祈る習慣や命を尊ぶ心がなければなりません。

 ――日本人の死生観はどんなものですか。

 古来から日本人は人は亡くなると近くの山に行って祖霊となり、やがて祖神となって子孫を見守っていてくれる、と考えていました。そこに仏教が入ってきて、死後は阿弥陀如来のいる西方(さいほう)浄土に行くという浄土信仰が広まります。

 それが日本的な風土が生んだ死生観で、一人ひとりがしっかりした死生観を持つことが、人生の安定につながると思います。

 昭和8年、神奈川県で教育者の家に生まれた棚橋さんは、慶応大学文学部を卒業し、慶応義塾中等部、嘉悦学園に勤めた後、祖父が創設した郁文館学園中・高校で社会科を教え、同学園校長に就任、理事長、学園長を務めた。また、東京・文京区教育委員、慶応三田教育会会長、全国商業高等学校校長協会副理事長などを務め、退職後も教育評論家、文京区昭和小学校運営連絡協議会委員など幅広く活動している。夫人は東京・小平市にある浄土真宗本願寺派本行寺の住職。地域の人たちが心の拠り所にしている昔ながらの寺で、春秋の彼岸法要を行う際には棚橋さんが台所に立ち、お斎(とき)の料理に自慢の腕を振るう。著書は『子どもは茶の間で育つ』など。