八重山日報が本島版を終了、「沖縄統合版」で再起図る
言論空間変える期待も経営難に
沖縄県石垣島を拠点とする日刊紙「八重山日報」が2月28日、沖縄本島版の発行を始めて1年11カ月で撤退した。沖縄本島2紙「琉球新報」「沖縄タイムス」の寡占状態を切り崩すには地元政財界の強力なバックアップが不可欠だ、との声が多い。(沖縄支局・豊田 剛)
教科書採択、基地問題で一石
八重山日報が全国的に注目されたのは「八重山教科書問題」が全国紙で話題になった頃からだ。石垣市の中学校教科書採択で保守系の公民教科書が採用されたことで、沖縄タイムスと琉球新報、地元テレビ局がすべて反対のキャンペーンを張った。八重山日報はメディアによる圧力に疑問を呈し、孤軍奮闘しながら中立報道に努めた。
それに加え、県内では何年間も、米軍普天間飛行場(宜野湾市)の辺野古移設が選挙の争点になり、移設容認の候補が苦戦を強いられる状況が続いている。地元メディアの一方的な報道が続く中、辺野古移設を容認する自民党と一部経済界からの強い要望で発刊されたのが沖縄本島版だった。
発刊後は、2紙がほとんど報じない辺野古移設容認派の声を丁寧に拾い、一定の支持層を獲得した。
八重山日報沖縄本島版がスタートしたのは2016年4月1日。公称約6000部の八重山日報が沖縄本島に乗り込むことへの期待は保守派の間で大きかった。発刊までに本島での新規購読5000部を目標に、約1年前から周到に準備を行ってきた。発刊時点では約2000部に達し、手ごたえを感じていた。申し込みが殺到し「配達員の確保ができない」といううれしい悲鳴もあった。読者の中には、沖縄タイムスか琉球新報から切り替えた読者が多いという。それに加え、沖縄の言論空間に疑問を抱く本土の人々からも続々と申し込みがあった。
本島版は現地で印刷し、最大で30人の配達員を擁した。南は沖縄戦が終結した糸満から北は辺戸岬まで朝刊を配達した。ただ、膨らんだ人件費を購読や広告の収入で補うことができなかった。
また、新聞で告別式の情報を得るという沖縄独特の習慣がネックになった。「県内の葬儀社が2紙と結託している状況で、情報を得ることは困難だった」と元販売担当者は振り返った。また、「地元政財界から思ったような支援を得られなかったのも大きい」と関係者は話した。
仲新城誠同紙編集長は、「本島版の発行を通じて沖縄の言論空間を変えてほしいという期待をひしひしと感じた」と述べる一方で、「見えない圧力を大きく感じた」という。ジャーナリストの菅野完氏が、「幸福の科学に買収された新聞社なんですけど」とツイッターに書き込むなど、インターネット空間には、八重山日報と宗教団体が特別な関係にあると断定する書き込みが大量に出現した。仲新城氏は、「菅野氏のように社会的な影響力のある人物がSNSを利用して根拠のない誹謗中傷を加えた」と指摘した。
沖縄本島での新たな日刊紙の発行は実に50年ぶりだった。1967年に発行した「沖縄時報」は2年間だけの寿命だった。八重山日報沖縄支局版も約2年だった。
沖縄時報が発行された当時は、沖縄がまだ米軍施政下だった。当時、2紙の革新的論調に不満を持っていた沖縄財界の重鎮たちが支援に立ち上がった。67年3月、国場幸太郎・国場組社長の自宅に、印刷会社社長と建設大手の社長らが集まって創刊を決めた。これについて「沖縄の新聞がつぶれる日」(月刊沖縄社)で、山城義男元同紙労組委員長が、2紙による寡占状態を、創刊号の社説で「片肺」と断じ、その状況を覆すために、第3の日刊紙をスタートさせたと綴(つづ)っている。68年の琉球政府行政主席(現在の沖縄県知事)選挙は事実上、保守の西銘順治氏と革新の屋良朝苗氏の一騎打ちとなり、沖縄時報は西銘陣営に肩入れ。自民党と経済界の側に立った論調を展開した。
創刊から半年で最大5万部に達したが、経済界から思ったような財政支援を得ることができなかった。労使紛争を経て2年後に休刊になり、やがて廃刊に追い込まれた。当時は沖縄の復帰闘争の最中だった。
八重山日報は、3月1日から石垣版と沖縄本島版を一つにまとめた「八重山日報統合版」として再スタートを切った。石垣島で印刷し、沖縄本島に郵便で配送している。電子版も強化する方針だ。仲新城氏は、「本島版からの撤退は敗北ではなく、経営を立て直すことで再起を図りたい」とコメントした。