欧米からの制裁で経済危機にあえぐロシア

「愛国主義」鼓舞するプーチン政権

国民の不満を外国に向ける

 原油価格の下落でロシアの経済危機が深刻化し、国民の生活水準も低下しつつある。プーチン政権は愛国主義を鼓舞し、国民の不満を外国に向けさせることでこれを乗り切る構えだ。一方で、2月中旬に行われたミュンヘン安全保障会議に、欧米からリベラル派と見られるメドベージェフ首相を派遣するなど、欧米との関係改善に向けたシグナルも送り続けている。(モスクワ支局)

ミュンヘン安保会議にメドベージェフ首相派遣

欧米との関係改善アピール

 プーチン大統領の第一期、第二期(2000-2008)と、大統領再登板(2012-)のつなぎとして大統領を務めたメドベージェフ氏。プーチン首相との「タンデム(二頭立て)」体制とも呼ばれ、政治の実権はプーチン首相が握り、独自色をほとんど出せずに4年の任期を終えた。

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シリアのアサド大統領(左)をモスクワに迎えたロシアのプーチン大統領=2015年10月(EPA=時事)

 もっとも、欧米ではリベラル的な言動が受け入れられ、「欧米寄り」の政治家として見られている。そのメドベージェフ首相をプーチン大統領は、2月12日から14日まで開かれたミュンヘン安全保障会議に、自らの代理として派遣した。

 ミュンヘン安全保障会議は毎年2月に開催される。民間の団体が主催する会議ではあるが、世界各国から閣僚級の政治家、安全保障担当者や諜報機関関係者が集まり、「安全保障分野のダボス会議」とも形容される。2007年の会議でプーチン大統領が、米国による一極支配を厳しく批判する演説を行ったことでも知られる。

 今回のミュンヘン安保会議のテーマの一つはシリア紛争と、欧州に流入する難民について。11日の会議では、欧米の参加者が紛争解決にむけた協力で一致した。しかし、紛争終結には、一方の当事者であるシリアのアサド大統領を交渉のテーブルに就かせる必要がある。それができるのは、アサド政権を支援し密接な関係にあるロシアだけだ。英国のハモンド外相は「プーチン大統領にその気があれば、電話一本でシリア紛争を終結させられるだろう」と語った。

 ミュンヘン安保会議ではまた、ウクライナ情勢もテーマの一つとなった。ウクライナ東部危機を解決するためには、ロシア、ウクライナ、ドイツ、フランスの代表者による停戦合意(ミンスク合意)の順守が必要、ということで欧米の参加者は一致した。しかし、ロシアによるウクライナのクリミア併合などを受けた欧米などによる対露経済制裁は続いており、ロシアの不満は大きい。

 ミュンヘン会議でのメドベージェフ首相の演説は、これに焦点を当てたものだった。同首相は、欧州とロシアの間に新たな冷戦が訪れたと語り、「われわれの間には相互理解は存在せず、あるのはロシアに対する多くの不愉快な対応だけだ」と切り捨てた。その上で、欧米などがロシアに課している制裁を列挙し、それがさまざまな分野での協力関係を壊してしまったと指摘した。

 メドベージェフ首相の演説は、欧米の不評を買ったが、それは逆に言えば、メドベージェフ首相はリベラル派で、欧米の価値観を理解するロシアの政治家だという認識があるからだ。プーチン大統領が自らの代理として同首相を派遣したのであり、その演説内容はプーチン大統領の意向を反映したものである。

 ミュンヘン安保会議に、メドベージェフ首相を派遣したこと自体が、プーチン大統領が欧米との関係改善の可能性を模索しているという、欧米に向けたメッセージだと言うことができる。

 一方、主力輸出品である原油の価格下落による景気の悪化に、経済制裁が追い打ちをかけ、ロシアの経済は極めて厳しい状態に陥った。通貨ルーブルの価値は対ドルで2年前の半分以下になり、物価の高騰が市民生活を直撃した。ロシア政府も手の打ちようが無く、政府当局者自らが「景気停滞は15年から16年は続くだろう」と表明している。

 それでもプーチン政権は高い支持率を誇る。プーチン大統領が「ロシアのただ一つのイデオロギーは、愛国主義でなければならない」と語っているように、ロシア人の愛国心を鼓舞し、国民の不満を政府にではなく、外国に向けさせるよう働きかけていることが、その理由の一つだ。

 ロシア市民の間にも、「富や財産」を否定的にとらえ、“等しく貧しかった”ソ連時代へのノスタルジーを語る雰囲気が形成されつつある。もちろん、プーチン大統領が数年前「共産主義は空虚なイデオロギーだ」と否定的に語ったように、共産主義に戻るわけではない。

 「愛国主義」のベースとなるものが、「ロシアは特別」というキーワードだ。プーチン政権とも近い関係にあるロシア正教のキリル総主教はしばしば、「特別なロシア文明」について語っている。「ロシアには独自の、特別な行くべき道がある。ロシアの人々は最低限の物質的な財で生きる能力があり、常に、聖なるもののために耐えることができる」というものだ。