イエメン、ホデイダ港めぐり内戦激化
イエメン内戦は6月、同国第2の貿易港ホデイダ港の支配権をめぐって激化、内戦開始以来最大の激戦が展開されている。ハディ暫定政権軍は20日、同港の空港を占拠した。国連人道問題調整事務所(OCHA)は21日、戦闘を恐れて避難する民間人の数が急増し、その数は3万人を超えたと発表した。(カイロ・鈴木眞吉)
暫定政権軍が空港占拠
避難民は3万人超に
イエメン内戦は、2010年暮れにチュニジアで始まった民主化要求運動「アラブの春」が、イエメンに波及したことから、11年に始まった。1978年以降、強権的な独裁を続けていたサレハ前大統領が国内外からの批判を受けて、当時副大統領であったハディ氏に大統領権限を一時移譲、大統領選挙を経て2012年2月、ハディ氏が正式に大統領に就任した。国際社会もこれを承認、アラブの春の成功例の一つになるとも思われたが、スンニ派部族とシーア派のフーシ派の部族間の衝突が原因となり、フーシ派は14年9月、首都サヌアを占拠、15年1月には、フーシ派がクーデターを起こして、ハディ大統領を軟禁、辞任に追い込んだ。
フーシ派が短期間にこれだけの力を得たのは、大統領職を不承不承引き渡さざるを得なかったサレハ前大統領が、イエメン軍との間にあった深いつながりを活用してハディ大統領に対抗、フーシ派と同盟を結んだことにある。
15年2月、フーシ派は政権掌握を宣言した。
フーシとは、1990年代にイエメン北部サダア県から発展し、北部を拠点に活動するイスラム教シーア派の一派、ザイド派の武装組織で、同派の宗教運動「信仰する若者」の中核となった指導者、フセイン・バドルッディーン・フーシ師の名前だ。フーシ師は2004年9月、治安当局により殺害され、同運動は「フーシ派」と呼ばれるようになった。正式な名称は「アンサール・アラー(神の支持者)」。現指導者は、フセイン・フーシ師の異母弟である、アブドルマリク・アル・フーシ氏(1982年生まれ)。
04年から10年まではイエメン軍と断続的に戦闘を繰り返していたが、11年のイエメン騒乱に乗じサダア県を占領、13年から南部に勢力を拡大、14年に首都サヌアに侵攻した。
ところが、辞任したはずのハディ氏が15年2月、サヌアを脱出して南部の港湾都市アデンに逃れ、辞意を撤回、フーシ派を批判するに伴い情勢が一変、それ以降、サレハ元大統領と同盟したフーシ派、スンニ派中心のハディ暫定大統領勢力、国際テロ組織アルカイダ系「アラビア半島のアルカイダ」が支援するアンサール・アル・シャリアによる三つどもえの内戦が展開されるようになった。
15年3月25日、フーシ派は、ハディ暫定大統領の拠点であるアデンへと進撃したことから、ハディ氏は当地の大統領宮殿からボートで脱出、サウジアラビアの首都リヤドに逃れた。サウジなどのスンニ派アラブ諸国が空爆を開始したのはその翌日の26日。ここから、スンニ派対シーア派、それらを支援するサウジなどのスンニ派諸国とイランとの代理戦争が始まり、現在に至っている。
ハディ氏がイエメンに帰還したのは15年9月で、サウジに逃れてから約半年後。アデンに入り、首都奪還に向け活動を開始した。
17年12月にはサレハ前大統領が、サウジ主導の連合軍と和平協議を行う用意があると表明、これに対しフーシ派は、サレハ氏による「重大な裏切り」と断じ、2日後の12月4日、サレハ氏を殺害した。
戦闘はさらに拡大し、ミサイルを撃ち合うまでになったが、ハディ政権側の優位性が確立しつつあるようだ。
イランがフーシ派を支援する理由は、フーシ派がシーア派の一派であり、それを通して、イラン・イスラム革命の全世界輸出という“聖戦”を戦うためだ。革命の成果を守り、革命輸出を使命とする革命防衛隊のフセイン・サラミ副司令官は22日までに、前線はシリア、レバノン、イラク、イエメンにあると明言した。イランが何を動機に戦いを推し進めているのか明言した形だ。







