イスラエルのペレス前大統領逝去

パレスチナ自治合意に尽力
「宗教国連」構想を提案

 イスラエルのシモン・ペレス前大統領が93歳で逝去した。同国は2年後に建国70年を迎えるが、この国の防衛、経済、安定、和平など、多面的な貢献をした政治家の生涯だった。

ペレス

イスラエルのペレス前大統領=2012年10月、エルサレム(EPA=時事)

 11歳でイスラエルに渡ったポーランド移民の子は、長じて公務員となり、政治に目覚めて労働党に属し、国防相・外相のほか、2度の首相職と大統領職(2007~14)を務めた。1993年、パレスチナとの暫定自治宣言(「オスロ合意」)にこぎ着けたイスラエルのラビン首相、パレスチナ解放機構(PLO)のアラファト議長と共に、ノーベル平和賞(1994)を受賞した。

 「オスロ合意」に反発したユダヤ教過激派の青年がラビン首相を暗殺して世界に衝撃を与えたため、一般には同氏のイメージが強いが、当時外相のペレス氏はラビン首相を支えて調停に奔走した。ノーベル賞委員会はペレス氏の功績を無視できなかった。

 イスラエルという、現代史の奇跡のような国造りに携わったペレス氏の半世紀以上の政治人生では、言行や政策上の矛盾が散見され、政敵との妥協も躊躇(ちゅうちょ)しなかった。しかし棺(ひつぎ)を覆った今にして言えるのは、ペレス氏がユダヤ国家の安全と持続を確保し、さらに周辺諸国との和平と共存の道を模索し続けたことだ。そのために先を読み続け、文字通り息を引き取るまで策略をめぐらし続けた。米外交専門誌「フォーリン・アフェアズ」は、「ペレス氏の生涯と遺産」は「(現代)イスラエルの鏡のようなものだった」との寄稿を掲げた。

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1993年9月13日、ワシントンで、オスロ合意に調印するイスラエルのペレス外相(当時)(AFP=時事)

 48年の建国から20年間に、イスラエルはアラブ諸国と3度の戦争に応じなければならなかったが、その間に防衛能力の強化と軍需産業育成のためにペレス氏が尽力したことは衆目の認めるところ。後にフランスとの秘密協定を結ぶなどして、イスラエルが密かに核保有するためにも貢献することになる。

 73年の第4次中東戦争後、エジプトとの平和条約が結ばれ、もはやアラブ諸国から攻撃されない防衛態勢を確保してから、ペレス氏はヨルダン川西岸地域にユダヤ人入植地を認め始めた。一方で今後は、戦争より妥協によって恒久的な安全保障を確保すべきだ、と主張して、それまで反対してきたPLOとの交渉に応じ、上記のオスロ合意を結ぶことになる。

 ペレス氏は労働党の政治家として社会主義政策を採ったが、経済の低迷と混乱に直面して、自由市場・資本主義政策に転じた。強大な労働組合と渡り合ったり、通貨の大幅切り下げ措置を取った。その後のイスラエルは、軍需、IT、バイオ、サイバーセキュリティーなどの先端部門で、世界をリードする押しも押されもしないハイテク国家になり、中東で一部の湾岸産油国を除けば、1人当たり国内総生産(GDP)が一番の豊かな国だ。

 しかし上記オスロ合意が挫折してから、パレスチナ・アラブ人との和平協議は頓挫したままだ。その間、パレスチナ解放闘争の前線は、イスラム急進派の大義になりつつある。またイスラエル周囲では、シリア・イエメンの内戦とイラクの政局にも投影されているイスラムのスンニー・シーア二大宗派間の抗争が熾烈になる一方だ。

 それぞれの代表格であるサウジアラビア(スンニー派)とイラン(シーア派)の確執も域内の緊張を高め、その漁夫の利を得る形で「イスラム国」(IS)が「聖戦」の大義を掲げてテロの支配を広げている。

 そうした状況を考慮してか、ペレス氏は大統領退任直後の2014年9月、ローマ法王庁(バチカン)にフランシスコ教皇を訪ねた。当時の報道(毎日新聞2014・9・6)によればペレス氏は、宗教指導者が紛争解決と平和構築に取り組む「宗教の国連」を創設する構想を提案した。また会談前のインタビューでペレス氏は、「かつて戦争の大半は『国家』という考えが引き金だったが、今日の戦争は宗教を口実に起きている」「多くのテロ組織が『神』の名の下に人を殺している」と指摘した。そして「国連は政治組織だが、各国が保有しているような軍隊は持っておらず、宗教が生み出す信念もなく、全盛期を過ぎた」と分析。「こうしたテロリストに対抗できるのは『宗教の国連』とも言うべき宗教連合だ」と述べ、トップにふさわしいのは法王だとの見解を示していたという。

 イスラエルと中東の現状を見れば、ペレス氏の「遺言」を引き受ける政治・宗教指導者が現れることを期待したい。

(平和政策研究所主任研究員・山崎喜博)