真の改革精神失ったろうそくデモ
自己の利益優先、不法も辞さず
敢(あ)えてろうそくデモを語る。ろうそくデモを尊く思う理由は、自分の身を燃やして世の中を照らす犠牲と献身の精神が込められているからだ。(朴槿恵前大統領に対する)弾劾政局で多くの国民がろうそくを手に取った理由である。
先週末、国会前でろうそくデモ勢力が2年ぶりに集まったが、本来のろうそくデモの犠牲精神は見られなかった。先鋒隊を自任する民主労総(=全国民主労働組合総連盟。韓国のより戦闘的な労組の全国中央組織)は非正規職の処遇改善を要求する。だが実際には自らの食い扶持(ぶち)が減ることを恐れ、非正規職の正規職化を妨害して“雇用世襲”を手放さない。
先日、民主労総の委員長は大統領府前で政権に向かって、「どのように政権に就いたのか自覚せよ」と叫んだ。自分たちのおかげで権力を握ったのだから“ろうそく代”を払えという圧力だった。
彼らは自分の利益のためなら如何(いか)なる不法も辞さない。組合員は白昼に会社の社長を捕えて役員を血だらけになるまで殴った。組合員の不法占拠によって検察総長(検事総長)が裏口から出退勤し、地方労働庁長は自分の事務室から追い出された。こうした無法に対して検察や警察は彼らの顔色をうかがっているだけだ。
「これが国か」という叫びが、むなしくろうそくデモ勢力へ向けられている。本来の精神を失ったろうそくデモは贋物(がんぶつ)であることが明らかだ。
国会前のろうそくデモ勢力が掲げたスローガンは社会大改革だった。改革に逆行していると政府を糾弾したが、改革の正しい意味を逆に読んでいるのはむしろ彼らの方だ。真の改革は他人でなく自分に向かわなければならない。改革とは自身を打って皮をはがし、新しく生まれるという意味だ。そのような途方もない苦痛を耐えてこそ初めて改革ということができる。
今、ろうそくデモで叫ぶ人々の改革には自分自身が抜けている。彼らは他者を積弊だと追い立てて棍棒(こんぼう)を振り回す。出血するのはいつも相手側だ。人を打つのは暴力であり改革ではない。明るいこちら側は正義で真っ暗なあちら側は積弊という錯覚に陥りやすい。共に生きていく国民と見ずに処断の対象と誤認しているのだ。文在寅政権発足後のすべての対立と弊害はここから始まっている。
ろうそくデモ勢力は国会包囲を計画しながら、「彼らが委任された権力の本当の主人が誰なのか教えてやる」と言った。傲慢だ。大韓民国はろうそくデモ勢力のためだけの国ではない。安昌浩(アンチャンホ)、金九(キムグ)、李舜臣(イスンシン)の血と汗で守った国だ。その主人は5000万の大韓民国国民だ。こうした偽りの闇を追い出すのは贋物のろうそくの灯(あか)りではなく本当の太陽だ。その本当の時が近づいている。
(裵然國論説室長、12月7日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。