大統領弾劾で憲法裁「最後の答え」
棄却なら革命、弾劾なら惨劇
ソウル都心には考えの違う二つの群衆が集まる。一方は朴槿恵(パククネ)大統領弾劾案が憲法裁判所で認容されなければならないと信じる者たち、他方は棄却または却下されなければならないと信じる者たちだ。前者はろうそくデモ群衆、後者は太極旗群衆だ。
弾劾が詰めの段階に入ったが、双方とも満足のいく決着になるとは思っていない。韓国民が憲法裁に望むのは「最善の答え」だ。しかし憲法裁が出せるのは「最後の答え」だ。ろうそくデモ群衆も太極旗群衆も、彼らが望まない答えが出てくる場合、受け入れる意思は全くないように見える。むしろ、それを予想して、路上で勢力誇示をしている。
いま大韓民国は国家的危機にある。勢力誇示や勢力対決で憲法裁に最後の答えを変えさせることができるとして、彼らは路上を埋めている。その一方で「棄却されれば革命」を叫び、他方では「弾劾されれば惨劇」だと言う。これは憲法裁のみならず社会に対する露骨な脅迫である。これで法治主義と言えるのか疑問だ。
集会参加者の大多数はみな国を心配する純粋な気持ちで集まる。しかし個人と群衆は違う。かつてノーベル文学賞受賞者エリアス・カネッティが『群衆と権力』で明らかにしたように「群衆の最も顕著な特性は破壊欲」なのだ。
警察はソウル光化門一帯に約200の警察車両で車の壁を作る方針だ。騒動が破壊的になる危険を最小化するために“防火壁”を作るということだ。だが集会は1日では終わらない。憲法裁の決定が下るまで続き、決定後にはどのうように飛び火するか誰も分からない。
ろうそくデモ、太極旗集会、双方とも今は熟考と自重が必要だ。勢力対決で憲法裁判所を圧迫し、最後の答えを変えることができると信じるのは愚かだ。それぞれが信じる正義を叫ぶ前に、確認すべきは「最後の答えに対する承服」である。これが前提にならなければ沈黙する大多数の国民はろうそくデモにも太極旗にも共感しにくい。
政治家たちも言葉の遊びは止めるべきだ。何の但し書も付けずに、憲法裁決定を受け入れると宣言しなければならない。それでこそ国民の生命と自由の基盤である法治主義が息を吹き返すことができる。群衆心理に付和雷同したり集会に油を注ぎ、支持率を上げる私欲を追求するなら、そもそも指導者の資格自体がない。
(李承鉉(イスンヒョン)編集者、3月1日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。