ユダヤ系諜報活動の源流

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

無敵艦隊迎撃にも貢献

英を拠点に貿易ネットワーク

 多言語を駆使し、国際的な同族ネットワークを保持するユダヤ系はスパイとしては理想的な存在で、昔から諜報活動の分野で多くのスター・プレーヤーを輩出してきた。何しろ、同化主義的ユダヤ人の場合、素性を隠し、もうひとりの自分を演じながら世間を欺き暮らす術など、子供の頃から自然と身につけている者が多かったからである。

 今日、世界最強の諜報機関のひとつと噂されるモサドが、ユダヤ人国家、イスラエルに誕生したのも、こうした背景があったからと言えよう。

 さて、世界史上、ユダヤ系による諜報活動の源流を遡ると16世紀後半、エリザベス朝の英国へと辿り着く。当時の英国は世界帝国スペインの軍事的脅威に怯える、いまだ「二流どころの国」であった。それ故、エリザベス女王の側近、国務大臣のウォルシンガムはスペインの動向を探るべく諜報網を組織・確立し、みずからその元締めを務めたのであった。配下で働く間諜たちの多くはカトリック・スペインの宗教迫害から逃れて来たイベリア半島出身の亡命ユダヤ系だったのである。

 エリザベス朝のロンドンにはポルトガルから亡命してきた百人程の裕福な隠れユダヤ教徒の一団がコロニーを築いていた。英国の宗教的寛容さと経済的繁栄に惹かれ来住したのである。

 法的にはユダヤ人の英国居住は許されていなかったのだが、隠れユダヤ教徒たちは告発を恐れ、正体を隠す必要はなかったのだ。国益にかなう人物であれば、官憲当局はその存在を黙認したばかりでなく、政府要人たちは彼らの正体を知りながら親しい交際を求めたからである。

 彼らが、その本業、外国貿易で培った海外とのネットワークを利用しようと目論んでいたのである。隠れユダヤ教徒たちは、自分たちが英国で「望まれた存在」であるということを知っていたが故に、恐らく「居心地の良さ」を感じていたはずである。当時、「ヴェニスの商人」の執筆を構想していた作家、シェークスピアが彼らの一部と接触していたとしても、それは全くあり得ぬ話でもなかったわけだ。

 彼らはカトリック・スペインの宗教迫害に苦しめられてきたが故に、また母国ポルトガルをスペインが併合してしまったが故に、スペインを強く憎む人々であった。それ故、ウォルシンガムとその上司、大蔵卿ウィリアム・セシルの密偵となり働いたわけだ。そうしたポルトガル出身の隠れユダヤ教徒のリーダーがエクトール・ヌネスであった。

 「事実上の首相」としてエリザベス朝英国を偉大ならしめた功労者セシルは、当初、和戦両様の構えでスペインとの和平交渉を秘かに進めていた。この交渉をスペイン側がどう考えているのか。その本音を探るためにヌネスの同族ネットワークを諜報網として利用したのである。

 ロンドンからスペイン領南ネーデルラントを経由し、イベリア半島、コンスタンチノープルまで連なるヌネスの同族ネットワークは情報収集源として大層役立ち、有益な情報をセシルのもとに送ってきた。ヌネス側が払った代償も少なくなかった。情報収集のためマドリードに送り込んだ義弟の素姓がスペイン官憲に発覚し、殺されてしまう事件も起きている。

 功労に報いるためセシルはヌネスとその一族に数多くの貿易上の特権と優遇措置を与えている。例えば1573年6月、ヌネスはラマンチャ産メリノ種羊毛を15年間にわたり、英国に輸入できる独占的輸入権を賦与されている。この羊毛は極上品質のフェルト帽子をつくるための原料で、大層高価で儲けの多い商品であった。また、1579年6月、ヌネスがエリザベス女王より「特別待遇の英国籍」を授与された際、口ききを行ったのもセシルであった。

 ヌネスにまつわる最大の手柄話は「無敵艦隊、来襲間近」の緊急情報を誰よりも先に英国の国務大臣ウォルシンガムに知らせたことであろう。1588年5月初め、ヌネスは友人宅の晩餐会に出席していたが、ロンドンの船着き場に到着したばかりの自分の船からもたらされた書状の内容に驚き、すぐさま退席して、持病の関節炎の脚を引きずりながらウォルシンガム邸に駆け込んだのであった。

 書面にはスペイン無敵艦隊司令長官メディナ・シドニア公爵がリスボン港に到着し、大規模なパレードを催したこと、リスボン港には軍船、兵員、軍需品があふれかえっていることがしるされていた。この文面からウォルシンガムとセシルはスペイン無敵艦隊の英国来襲が間近いことを知り、周到な準備のもと迎撃態勢を整え、大勝することができたのだ。

 この戦いは明治日本にとってのバルチック艦隊を撃滅した日本海大海戦に匹敵するものであった。それ故、隠れユダヤ教徒エクトール・ヌネスがもたらした情報はエリザベス朝英国の興廃を左右したと言っても過言ではないのだ。諜報分野におけるユダヤ・パワーが世界史に影響を及ぼした最古の事例のひとつと言えよう。

(さとう・ただゆき)