時代を開く「愚か者」であれ

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

自他混然の愛に生命力

分別知溢れ「意地悪」な現代

 スティーブ・ジョブズが2005年にスタンフォード大学の卒業式で行ったスピーチは、最後に「Stay hungry, stay foolish」(ハングリーであれ、愚か者であれ)という言葉で結ばれている。世界を席巻するアップル社の創業者が、若者に向かってハングリー精神で進めというのは分かる。しかし、次には愚か者であれと語るのである。

 なぜ、賢い者であれと言わなかったのだろうか。「愚か者であれ」など、近代科学文明の対極にあるようなカビ臭い代物ではないのだろうか。彼のスピーチ以来、この言葉がずっと心に引っかかっていたのだが、よくよく味わってみると、「愚か者であれ」という精神には、深い生命力が宿っていると感じるのである。

 さて、「愚か者であれ」と聞いて思い出す情景が二つある。一つはトルストイの晩年の名作『イワンのばか』である。軍人セミョーン、商人タラース、農民イワンの3兄弟に対して悪魔がちょっかいを出し、セミョーンは隣国を攻撃し逆に滅ぼされ、タラースは金の亡者となりモノを買いあさるが、すべてを失ってしまう。しかし、農民の「イワンのばか」だけは頑として悪魔の罠にかからず、実直に労働を続け、頭を使って働くべきだという悪魔を逆に退治してしまう。また、イワンは王女の婿になって王様にもなったが、体を動かさないのは性に合わないと言って、以前と同じく畑仕事に戻ってしまうのである。

 もう一つの情景は、映画「男はつらいよ」の渥美清演ずる車寅次郎である。第18作「寅次郎純情詩集」では、地方巡業をする旅役者一座と偶然に寅次郎が再会するシーンがある。寅次郎は見栄を張って、お金もないのに彼らのために宴席を設けて、飲めや歌えやの笑い声が夜の温泉宿に響く。その心意気が、旅役者たちにとってどれだけ励みになったかがしみじみと伝わってくる。やがて、翌朝に一座が次の巡業に向かうと、彼は無銭飲食で捕まって警察のお世話になるのである。

 イワンにしても寅次郎にしても、一見すると失敗を繰り返す愚か者の人生のように見える。しかし、別の見方をすれば、人の痛みが我が痛みであり、人の喜びが我が喜びであるような、自他が混然となっている近代以前の人間模様を見る思いがするのである。その人間的懐かしさと、人間の深層にある自他が一体でありたいという欲求が相まって、こうして世代を経ても多くの人々を引きつけてやまないのではないだろうか。つまり、近代人には稀有な「愚か者」だった故に宿っている人間の真実とも言えるである。

 翻って、先進国日本の社会を眺めてみたい。キーワードは無縁社会、孤独死、「意地悪」化である。2030年以降の我が国の生涯未婚率は、30%を超えると予測される。さらに、ここ最近はニートやフリーターなどの増加も著しく、30代、40代ですでに社会から孤立する者が急速に増えている。全国の自治体の調査によると、近年「身元不明の自殺と見られる死者」や「行き倒れ死」など国の統計上では分類されない「新たな死」が急増し、年間で3万人以上が孤独死で亡くなっているという。こうして、無縁社会はやがて大量の孤独死を生む社会となるのである。

 無縁社会や孤独死は、人との関わりのなさを象徴する言葉であるが、人との関わりを表す象徴的な言葉はなんであろうか。識者によると、現代の社会のキーワードは「意地悪」化する日本だという。確かに、ネット世界では匿名性を発揮して中傷炎上が氾濫し、大人社会も子供社会もいじめが止まるところを知らない。個人主義と権利主張の拡大によって、その不満のはけ口が他者に向かうのである。

 さまざまなクレーマー、モンスターペアレント、苦情申し立てが社会全体に拡散している。その多くは、相手と共感することとは正反対の、少しでも自分の得になるならば、ごり押しも構わない態度ではないだろうか。こうして、他者との関わりを単なる損得で勘定する「意地悪」化が深まっていく。賢い者たちが暮らす先進国日本の社会の行き着く先が、無縁社会、孤独死、「意地悪」化ならば、なんと悲しいことであろうか。

 禅の世界に、目ざすべき理想像として「痴聖人」という教えがある。痴とは愚かという意味である。いわば、「痴聖人」とは愚かな聖人である。何ものにも囚われず、あるがままに生きる人間の姿を彷彿させる。聖書にも「愚か」という言葉が肯定的な意味合いでよく登場する。「神のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」もその一つである。仏教にしてもキリスト教にしても、「愚か者」は肯定的で含蓄のある理想像なのである。

 ある禅僧は、愚かさの本質は無分別な愛であると語っている。この無分別とは、自分のことと他人のことが一体になっているような、世界の中に自分が溶け込んでいるような、自他が混然となっている在りようのことであろう。確かに、イワンも寅次郎も無分別な愛に溢れた「愚か者」だったと言えそうである。なんでも区別して捉えようとする分別知の現代世界にあって、無分別な愛を土台とする「愚か者」精神こそ、時代を切り開く生命力になり得るのではないだろうか。

(かとう・たかし)