宮廷ユダヤ人のロビー活動
英蘭動かし追放令撤回
翻意したマリア・テレジア
18世紀、ボヘミア王国の都プラハには九つもの壮麗な会堂(シナゴーグ)を擁する欧州最大級のユダヤ社会が繁栄していた。けれど1744年12月、突然の苦難に見舞われる。翌年6月までに全てのユダヤ人をボヘミアから追放せよとの命令を女帝マリア・テレジアが布告したからだ。
彼女はボヘミアを版図の一部に収める広大なオーストリア帝国の君主であった。当時、プラハに攻め寄せた敵国プロイセンの軍勢にプラハ・ユダヤ人が呼応し、利敵行為を行ったというのが追放理由であった。しかし、これは全くの濡れ衣で、オーストリア軍敗北の責めをユダヤ人に負わすことで自国民の不満をそらそうとしたのだ。
驚愕したプラハ・ユダヤ社会の指導者たちは追放令の写しを全欧州の主要ユダヤ社会に急送し、救援を求めたのである。同族の固い絆で結ばれた彼らの反応は迅速だった。フランスのボルドーとバイヨンヌのユダヤ社会では、この度の追放で犠牲となったユダヤ人のために募金運動が始まった。また、ローマのユダヤ社会は追放令撤回のとりなしを求めて、ローマ教皇庁に対する働きかけを始めたのだ。
こうした救援活動で威力を発揮したのが、宮廷ユダヤ人のネットワークだった。18世紀欧州各国の宮廷には宮廷財政に莫大な融資を行うユダヤの御用商人が出入りを許されており、君主から高い特権的地位を与えられていたのだ。彼らは宮廷ユダヤ人と呼ばれていたのだ。一度、何処かのユダヤ社会に、追放などの緊急事態が生じれば、彼ら宮廷ユダヤ人たちが同胞の危急を救う「とりなし役」として、それぞれの宮廷に効果的な働きかけを行う態勢が整えられていたのだ。この時の出来事はそうしたネットワークの存在を明瞭に浮かび上がらせた史上初の事例といえよう。
プラハ・ユダヤ人救援に最も力を発揮したのがロンドン・ユダヤ社会であった。かの地の宮廷ユダヤ人、エアロン・フランクスとモーゼス・ハートが救援活動の先頭に立ったのであった。フランクスは東インドからのダイヤ輸入で富を築き「ロンドンの宝石王」と仇名された大富豪で英王室とも親交があった。英皇太子妃が仮面舞踏会で身に付けた価4万ポンドの宝飾品は彼が貸与したものであった。
その金額は、当時、家族6人からなる勤労職人家庭の年間支出の800倍に相当するものであった。また、ハートは長年にわたり英王室財政に多額の融資を続けてきた大金貸しであり、王室に充分な働きかけが行える立場にあった。両者は英国王ジョージ2世への拝謁を求め、プラハ・ユダヤ人救援のために外交上の干渉をマリア・テレジアに対して行うよう英国王に嘆願したのである。
1万人を超すプラハ・ユダヤ人たちが子供等の手をひき、凍てつく真冬のボヘミアで街道を彷徨するあり様に話が及ぶと、英国王は落涙し、「罪なき者たちが酷い扱いをうけるとはむごいことよのお」と同情の言葉を発したという。英国王は早速、ウィーン駐在の英国大使に対し、オランダ共和国の大使と力を合わせ、マリア・テレジアに追放令を撤回させるべく、あらゆる努力を行えと命じたのである。この件について、ユダヤ史の碩学セシル・ロスは「他国の少数民族のために、ひとつの国が純粋に人道的見地から外交上の干渉を行った最初の事例である」と評価している。
当初、頑迷な姿勢を崩さなかったマリア・テレジアも英蘭の共同干渉に対しては譲歩せざるを得なかった。追放令を撤回し、ユダヤ人たちの帰国を許し、その居住権を認めたのである。英蘭共同干渉が功を奏した背景には、オーストリア帝国をとりまく当時の国際情勢があったのだ。
1740年、女性でありながら、マリア・テレジアがオーストリア皇帝位を継承したことに不服を抱く、フランス王、スペイン王、プロイセン王、ザクセン公、バイエルン公等が結託し、オーストリアに戦いを挑んできたのだ。高校世界史でも御馴染(おなじみ)のオーストリア継承戦争(1740―48)の始まりだ。窮地に陥った彼女を支持し、味方となったのがフランスの宿敵、イギリスとオランダだったのだ。軍事的・外交的に孤立しているマリア・テレジアにとり、英蘭の意向は無視できなかったというわけだ。
ユダヤ史の文脈の中で、本事件の歴史的意義を位置付けると、ユダヤ人たちが欧州国際政治の中で一定の影響力を発揮できるようになった、その最初の事例であるという点であろう。追放令撤回を求める陳情活動で力を発揮した宮廷ユダヤ人、フランクスやハートの個人的活動を将来に備えて制度化・永続化してゆくことの必要性が認識されたことも重要であった。
組織作りの気運は徐々に高まり、それは最終的に1760年に正式に発足する「英国ユダヤ人代表委員会」として結実するのである。この「委員会」こそ、今日、米、欧、豪、カナダなどにまたがり、国際政治に威勢をふるうユダヤ・ロビーの起源となるのである。
(さとう・ただゆき)