「反ユダヤ不在神話」の崩壊
デンマークで乱射事件
ユダヤ人に寛大だった王室
北欧の小国デンマークは欧州先進国の中でもユダヤ人に寛容で「反ユダヤ主義不在の国」と長らく信じられてきた。この評判を覆す血腥(ちなまぐさ)い悲劇が2月15日未明に発生した。首都コペンハーゲン中心部にあるユダヤ教会堂入り口付近で男が銃を乱射。警備にあたっていた同会堂の男性信徒の頭部を撃ち殺害。他に2人の警官も負傷させたテロ事件だ。当局は1月のパリでのユダヤ商店銃乱射事件を教訓に重装備の警官を普段の2倍配備していたため、堂内の祝典に参加していた80人の信徒は無事だった。けれど増派を怠っていれば大惨事になっていたはずだ。犯人は22歳の同国生まれのイスラム教徒、オマル・エルフセイン。
両親はヨルダンの難民キャンプ出身のパレスチナ難民だ。追跡した警官隊に射殺されたため詳しい動機は不明だが、犯行直前、ネット上で「イスラム国」最高指導者への忠誠を表明している。また高校在学時の旧友の談話からはパレスチナ紛争については興奮して語り、自身のユダヤ人嫌いを吹聴する人物像が浮かび上がってきた。他の欧州諸国同様、デンマークでも労働力不足解消のため80年代以後、中東・北アフリカ系のイスラム教徒移民を多数受け入れてきた過去がある。結果、イスラム教徒人口は今や同国民の4・1%に達している。
その子供たちが社会に適合できず、強い不満を抱えている現実が今回の凶行の背景にあるといえよう。この国が400年にわたり築きあげてきた宗教的寛容の歴史が一部の不満分子により脅かされているのだ。デンマークが世界に誇りうる宗教的寛容の伝統はその昔、ユダヤ人を受け容れ、彼らと共生の道を模索する中で築かれてきた経緯がある。それ故、この伝統が脅かされている今だからこそ、改めてその経緯を紹介する意義があるはずだ。次にそれをみてみよう。
デンマークのユダヤ人口は8000人、総人口の0・13%。大半は首都コペンハーゲンに集住している。彼らの祖先を最初に招いたのが国王クリスチャン4世。1640年、ユダヤ教信徒団設立の許可を与え、国際商業都市ハンブルク等から商才溢れるユダヤ商人を招いたのだ。小国デンマークの経済発展を期待しての英断だった。この国でのユダヤの誘致と厚遇付与は王室の肝いりで行われてきた。今日に至るまで、ユダヤ社会の主要祝典は王族臨席のもと行われる仕来りとなっている。中流以下のユダヤ人にも他国に見られぬ厚遇が与えられた。1788年の職人組合(ギルド)加盟許可である。これにより職人、手工業者になる道が開かれたのである。
不法入国ユダヤ移民に対しても思い切った解決策が採られた。3年以上コペンハーゲン市に居住した不法入国ユダヤ移民に在留資格を認める布告が1810年に発されたのだ。これは欧州の最先進国、英国の基準に照らしても極めて寛大な政策だった。1814年には全ユダヤ人に市民権が賦与された。ドイツより60年近く、ロシアより100年以上も早い平等権の実現であった。その背景にはデンマーク国王政府がユダヤ人銀行家から莫大な債務を負っていた事情もあげられる。
ユダヤ人への寛容さが最も明瞭に確認できるのは欧州ユダヤ人の3分の2、600万人を殺戮(さつりく)したナチス・ドイツによるホロコーストの時代においてであった。独軍占領下の国々でも犠牲者の比率は大きな差があった。最高はポーランドの88%。元々反ユダヤ感情が強かったポーランド人がナチスの協力者となった結果だ。一方、デンマークは僅か2%弱、断トツ最下位なのである。
独軍占領下のデンマークでも国民は「ユダヤ人狩り」への協力を強要された。しかし、これに抗議する多くのデンマーク国民は王室の呼びかけのもと6500人の自国ユダヤ人と1500人の亡命ユダヤ人をわずか3週間で、近隣の中立国スウェーデンへ逃したのであった。またこの者たちが残した家財も保管され、戦後、元の持ち主に返還されたのである。独仏蘭や東南欧諸国のように盗み取られはしなかったのである。デンマーク国民が誇りとする大いなる正義の物語といえよう。
国民の幸福度世論調査で世界第1位になったこともあるデンマーク。幸福実感度の高さと反ユダヤ主義の稀薄さは相関関係にある。
幸福を実感している人が他者に強い憎悪を抱くことは稀(まれ)だからである。怒れるイスラム教徒の若者が幸福を実感できるような社会整備が求められているといえよう。
最後に日本と縁の深いデンマークのユダヤ系を紹介しよう。それは「日本原子物理学の父」仁科芳雄を育てたコペンハーゲン大学のニールス・ボーア教授だ。ボーアは従来のニュートン力学では説明できなかった「原子の仕組み」を明らかにした世界最高水準の物理学者だ。仁科はボーア直伝の研究室運営法「日常的に真剣勝負の集団討論を自由な雰囲気の中で継続する」を日本に持ち帰ることで湯川秀樹や朝永振一郎を育ててゆくのだ。デンマークのユダヤ系の中には日本物理学界の恩人もいたのだ。
(さとう・ただゆき)






