2局面が混在するチベット
中央アジアコーカサス研究所所長・前国連大学学長上級顧問 田中 哲二
依然厳しく治安を維持
市民生活向上策は一定の効果

たなか・てつじ 1942年埼玉県生まれ。東京外語大卒。日銀入行、同考査役など。キルギス共和国大統領経済顧問など務める。中国研究所会長、アジア調査会参与、タシケント国立経済大学名誉教授、国士舘大学大学院客員教授。
4月末から5月にかけて上海、西安経由でチベットを訪問してきた。「令和」のスタートはチベットのラサで迎えた。
今チベットでは、二つの局面が混在している。
一つは中央政府の政治的懐柔策を含めた市民生活の向上策の実施が一定の効果を上げつつあること。観光立国化の方針もあり北京の中央政府や近隣の省政府から社会インフラ整備のための多額の資本が投入されており、例えば、自治区全域にわたる高速道路網の整備が急速に進んでいる。中央政府および自治区政府の推薦する外資導入も活発化しており、ホテルも欧米の五つ星クラスが幾つか進出している。高層の事務所ビル、アパート群も増えてきている。
近隣より高い年金・賃金
ただ、製造業の発展はまだそれほど目覚ましいものはなく、ヤクの放牧等に特徴のある農業の近代化は、その地勢的条件もあってあまり進んでいない。しかし、チベット市民の公的年金は最高クラスでは日本円にして月額30万円ほどもあり、中国平均はもちろん、近隣の四川省、青海省等よりかなり高いものになっている。現役労働者の賃金も比較的高く、周辺の省(特に四川省)から多くの若手労働者(建設業、流通・サービス産業等)が流入して来ている状況にある。
一方で、治安維持面については非常に厳しいものがある。首都ラサ市内では自動小銃を携えた人民武装警察・軽装甲車が始終パトロールしており、有名寺院などの観光スポットには多くの警官が配置されている。これら軍隊、警官の活動、軍事施設や警察署の写真撮影は厳禁されており、これに違反した観光客のカメラの没収も生じている。
また、外国人観光客は実に頻繁にパスポートをチェックされている。空港や有名寺院の入り口では、特に「乾電池」と「着火用ライター」に対するチェックが厳しい。これは一般的なテロ対策であると同時に2012年頃から頻発しているチベット僧の「抗議の焼身自殺」の事前防止の意味がある。
また、一般市民のインターネット使用は厳しく制限されている。これらの背景としては、インド亡命中のダライ・ラマ14世周辺の独立派の侵入を防ぐことにあるが、清朝中期・末期には東ユーラシアで最大勢力を誇っていた「チベット仏教」が域外・海外勢力と結び付くことを北京政府が強く懸念していることがある。
清朝は、満州、南モンゴル、東トルキスタン、チベットがチベット仏教で統一されたことから大帝国を実現することができた。中華人民共和国が、地勢的な版図として清朝のそれを継承することを正当化しつつ、一方で、チベット仏教の活動を大きく抑制・制限していることは、大きな矛盾だという現地感覚はそう簡単に消えそうにない。
続くチベット仏教抑圧
現在、ラサを中心とする主要都市では、観光推進策もあって「ポタラ宮」「ジョカン(大昭)寺」「セラ寺」等の大規模「チベット仏教施設」はほぼ復旧し、歴史的に有名な「チベット仏」等の重要文化文物はよく管理され、僧侶の数も戻ってきている。しかし地方・農村では1959年以降進められた僧院の破壊、僧侶の還俗、経典・仏像の破棄等の基本的な対チベット仏教強硬政策は、80年代には一時「雪解けムード」もあったが、今でもそのまま続いている。
いずれにしても、インドでの亡命政権樹立60年周年で83歳になったダライ・ラマ14世の平和的帰国、チベット仏教の国内活動の十分な自由化などは簡単に実現しそうにない。チベット自治区の政治・治安情勢の「安定化」は、強い緊張感を伴いながらも、同じく独立志向の強いムスリム少数民族のウイグル自治区に比べると、政治力学的にはやや進展しているように見える。