諸文明が融合した中国文明

小林 道憲哲学者 小林 道憲

大きい北方遊牧民の影響
西方・南方からも異文化流入

 中国文明は、四千年来の一貫した歴史を持ったオリジナルな文明だと思われているが、必ずしもそうではない。中国文明も、その長い変遷の過程で、常に外部からの影響を受けて変動してきた文明である。

 特に、中国文明の変動過程において、その外的要因として、北方の草原の道で活動していた遊牧民の侵入や征服は無視することができない。中国文明は、実際には、北方からの多くの征服王朝を経験し、逆に、北方遊牧文化の影響を濃厚に受けてきたのである。

 古代の北方騎馬民族・匈奴(きょうど)が、その優れた戦術によってたびたび華北へ侵入、漢民族を悩ませてきたのはよく知られている。それどころか、騎馬遊牧民族は、紀元後、漢帝国の滅亡をももたらし、秦漢によって代表された中国の古代王朝を終焉(しゅうえん)させている。4世紀以後の五胡十六国時代から北魏にかけての諸王朝がそれであった。

 中でも、北魏の支配者は、鮮卑系の騎馬遊牧民であった。この北魏がシルクロードを通して導入した仏教文化は、中国文明の新しい形成を可能にした。その後の隋・唐の創始者も、進取の気性に富んだ鮮卑系の部族出身であった。華北に騎馬遊牧系の諸王朝を建て、漢民族の王朝を滅ぼすとともに、次の新しい中国文明を築き上げていったのは、北方から侵入してきた草原の民だったのである。

 また、13世紀初め、モンゴル高原から、チンギスハンに率いられたモンゴル族が勃興してきたのも、古くから続いていた騎馬遊牧民の活躍の頂点においてであった。モンゴル帝国は、フビライハンの時、華北を征服して元朝を建て、さらに南宋を滅ぼし、中国大陸を席巻した。

 元朝時代の中華帝国は、軍事、政体、財政など、政治組織の基本はモンゴル方式がとられ、モンゴル人やイスラム系が重んじられ、漢民族はその支配に甘んじなければならなかった。実際、モンゴル帝国の歴代の支配者たちは、イスラムの経済と文化を高く評価し、ムスリムを、職人、軍人、商人、官吏として重用し、その知識や技術を活用した。

 そのため、元朝時代の中国大陸へは、沿岸部、内陸部を問わず、イスラム寺院が多数建てられ、イスラム教が普及した。イスラム文化の伝来も盛んで、それは、飲食物、音楽、言語、文字、建築、工芸、医学、地理学、数学、暦法、天文学、あらゆる方面に及んだ。モンゴル時代には、中華世界は、モンゴル世界帝国にのみ込まれたのである。

 17世紀には、また、北方の満州族による征服王朝・清が成立している。北魏、隋、唐、遼、金、元、清と、鮮卑、モンゴル、女真族(満州族)など、北方の諸民族が建てた諸王朝のことを考えると、中国文明の形成に北方民族が果たした役割は大きいと言わねばならない。むしろ、その北方民族の、政治、経済、文化にわたる情報統合力、再編能力によって、中国文明は、何度も息を吹き返してきたのである。

 中国文明は、また、西方のシルクロードを通っても、ペルシャやアラビア、インドなどの諸文明から強い影響を受けて形成されてきた。北魏が採用した仏教文化はもちろん、隋唐時代の中国文明も、シルクロードを通して流入してきた西方の文物によって大きく変容していった。

 仏教のほか、マニ教やゾロアスター教、ネストリウス派キリスト教、イスラム教、アラビア科学、アラビア医学など、シルクロードから流入してきた文化は多い。隋唐時代の中国文明は、秦漢時代の中国文明とは全く様相を異にしている。

 中国文明は、また、南方の沿岸部から流入してきた諸文明の深い影響にさらされた。南北朝時代の南朝も、広州あたりから流入してきたインド大乗仏教の深い影響下に立った。さらに、11、12世紀、宋時代の経済的繁栄を可能にしたのも、南海路を通してもたらされたイスラムの科学や技術の影響が大きい。西ヨーロッパ近代文明由来のキリスト教や科学的知識も、主に南海路を通して流入してきている。

 ここ30年程の改革開放による中国経済の発展と膨張も、特に、長江以南の沿岸部からもたらされた近代文明の海からの圧力による。

 中国文明は、絶えざる異民族の侵入や異文化の流入を経験して、自己の中に異文明をのみ込むことによって、変動してきたのである。そのことによって、中国文明は、たびたびの衰退にもかかわらず、その都度復活し再生してきた。中国文明は、長きにわたって、北からも、西からも、南からも、陸路を通しても、海路を通しても押し寄せてきた異質な諸文明の統合と融合によって成り立っているのである。

 いかなる文明もオリジナルではない。

(こばやし・みちのり)