独立から70年のミャンマー
ミャンマーが4日で独立70周年を迎えた。以前訪れた、ミャンマーの旧首都ヤンゴンのホテルで朝、ラジオのスイッチを入れると突然、軍艦行進曲が鳴り出したことがある。一瞬、日本のパチンコ店にテレポートしたかのようだったが、ビルマ(後、ミャンマーと1989年に名称変更)独立の歴史を垣間見たような気がした。ビルマ独立に関わった日本には、現在のミャンマーがロヒンギャ問題で米国から制裁を科せられ、その間隙(かんげき)を中国が突く中、独自のバランス外交が求められよう。
(池永達夫)
建国の父ら旧日本軍が支援
民主化後も続く対中傾斜
外相兼国家最高顧問のアウン・サン・スー・チー氏の父親のアウン・サン将軍は、ミャンマー「建国の父」だ。
第2次世界大戦中、ビルマは英国の植民地だった。独立運動を起こした「30人の志士」と呼ばれるビルマ人は日本軍から訓練を受け、ビルマで英国軍と戦った経緯がある。アウン・サン将軍は面田紋次(おもたもんじ)との名前すら持っており、大本営直属の南機関から、気候条件がビルマに似通っているという理由から選ばれた海南島(現中国海南省の島)で軍事教練を受けていた。
教練内容は、「戦闘・戦術の指揮」といったベーシックなものから「国内擾乱(じょうらん)に向けた情報収集活動」「地方行政」にまで及んだ。苦節に満ちた歴史の波頭を超えて来た「30人の志士」は、今もミャンマーの英雄だ。
大本営がビルマ独立運動に加担したのは、連合軍の武器の道である援蒋ルートの遮断のためだった。蒋介石率いる大陸内部の中国国民党軍に対し、ビルマを通る援蒋ルートで英国軍が軍事物資を運んでいたのだ。
アウン・サン将軍はビルマ独立1年前の1947年に暗殺されたが、それまで独立運動のリーダーとして建国に大きく貢献した。また、ミャンマー政府は81年4月、独立に貢献した南機関の鈴木敬司氏ら旧日本軍人7人に、国家最高の栄誉「アウンサン・タゴン(=アウン・サンの旗)勲章」を授与している。
さて、2015年11月の総選挙では、スー・チー党首が率いる野党・国民民主連盟(NLD)が歴史的な勝利を得た。上下両院(定数合計664)の改選議席491議席中、390議席を獲得し、過半数を制したのだ。他方、軍事政権の流れをくむ政権与党・連邦団結発展党(USDP)は42議席という惨敗だった。
NLDのティン・チョー氏が大統領に、スー・チー氏が国家最高顧問、外相および大統領府付大臣に就任している。
ただミャンマーには、軍事政権から一気に民主政権に豹変(ひょうへん)したとはいえない部分が残っている。国権に関わる最高意思決定機関のある「国防治安評議会」で、11人の構成員のうち、軍部は過半数を押さえており、いつでも合法的クーデターが可能だからだ。国際社会から非難ごうごうのロヒンギャ問題でも、軍部を相手に調整に手間取るNLD政権のジレンマが存在する。
なお中国は、同じように国際社会の批判にさらされてきた過去の軍事政権をバックアップし、自国の都合のいいように活用してきた。その典型が、雲南省昆明とミャンマー西部のベンガル湾のチャウピューを結ぶ全長約1100キロのパイプラインだ。
現在、中国が輸入する原油は7割以上がマラッカ海峡を経由している。この海峡の有事は、中国にとって悪夢以外の何ものでもない。ミャンマーを通るパイプライン敷設は、エネルギー補給路のバイパスを意味し、中国が渇望してきた。
このパイプラインは原油用と天然ガス用の2本。昨年、本格稼働が始まり、年間2200万トンの原油と同120億立方メートルの天然ガスを運ぶ。中国の年間原油輸入量の約1割、天然ガスは4分の1に相当する。これで中国は、雲南省からベンガル湾に抜ける南下回廊を手に入れたことになる。意味するものは、エネルギー確保と安全保障の一石二鳥のメリットだ。
かつて援蒋ルートがあったことは前述した。今も習近平中国共産党総書記を支援する“援習ルート”が存在する。欧米が軍事政権に制裁を科していた間、中国は政治的バックアップだけでなく多大な経済支援をもってミャンマーと深いつながりを結んできた。
民主化後もミャンマーへの中国の積極的関与が続く中、ロヒンギャ難民問題への対処の一方でミャンマーの中国傾斜を防ぐ外交努力も忘れてはならないだろう。