阿里山森林開発のパイオニア、河合 鈰太郎

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(12)

人跡未踏の地「阿里山」を日本統治により「檜の宝庫」へ

阿里山森林開発のパイオニア、河合 鈰太郎

台湾・嘉義県にある阿里山

 台湾の中央部にある玉山は、富士山を超える3952メートルもの高さを誇る。かつて、この山は「新高山」と呼ばれた。日本による台湾統治が始まって間もなく測量を実施したところ「富士山よりも高い日本最高峰の新しい山」であることが分かり、明治天皇によって、こう命名された。

 1941年12月2日、大本営より北太平洋上を航行中の海軍機動部隊に対し送信された暗号電「新高山登レ一二〇八」(ニイタカヤマノボレヒトフタマルハチ)は、これに由来する。「一二〇八」とは「12月8日」、すなわち真珠湾攻撃の指定日である。

 その玉山の西側には3000メートル級の18もの山々が連なっている。これらを総じて「阿里山」と言う。樹齢1000年を優に超える巨大な木々が聳(そび)え立つ台湾有数の景勝地である。

 台湾土産の定番「阿里山茶」の産地としても有名である。阿里山の斜面には随所に茶畑が広がっている。軽やかな飲み口、爽やかな風味、上品な香りで人気がある。

 かつて、阿里山は檜(ひのき)の宝庫として知られ、そこから切り出された檜は高級建材として日本の多くの寺社で使用された。靖国神社の神門、明治神宮の初代大鳥居、東大寺大仏殿の垂木も阿里山産である。

 だが、それ以前は人跡未踏の地であった。伐採するにしても、それを搬出する手段がなかったためである。そんな阿里山に光が差し込んだのは、日本の台湾統治がスタートしてから数年後のことであった。その中核となったのが後に「阿里山開発の父」と評される河合鈰太郎(したろう)である。

運搬に「日本初」の山岳鉄道を建設、木材の一大生産地に

阿里山森林開発のパイオニア、河合 鈰太郎

河合鈰太郎(長江銈太郎『東京名古屋現代人物誌』から)

 河合は1865年、愛知県に生まれ、東京帝国大学農科大学林学科で学んだ後、母校の助教授に任ぜらる。その後、森林利用学を究めるべく、ドイツ、オーストリアに留学した。

 欧州滞在中、たまたま外遊で立ち寄った台湾総督府民政長官の後藤新平と会見した河合は、台湾の森林開発に関して後藤に献策した。これにより、留学から日本に戻って教授に就任した直後、後藤に請われて台湾の林業行政に参画することとなった。

 当時、総督府は、阿里山に無限の美林が存在していることを知りながらも、地勢が険しいために木材を運ぶ方法が見当たらず頭を抱えていた。山から流れ出す川を利用するという手段も考え出された。しかし、川の途中に複数の巨大な岩が見られたため、この計画は白紙となった。

 1902年5月、河合は台湾に渡り、阿里山の実地調査に乗り出した。だが、結果は予想していた通り「旧来の技術では無理」というものだった。

 そこで河合は木材を運搬するための鉄道敷設を考案する。早速、測量と設計を開始し、やがて着工に漕(こ)ぎ着けた。もちろん、そう簡単に実現できるものではない。途中、資金不足や水害にも悩まされ何度も挫折を味わうも、6年後、ようやく「日本初」の山岳鉄道が完成した。

 完全に稼働するまでには、さらに数年を要するも、兎(と)にも角にも、こうして本格的な木材の搬出が始まったのである。やがて、インドのダージリン・ヒマラヤ鉄道、チリからアルゼンチンを通るアンデス横断鉄道と並んで世界三大山岳鉄道の一つに数えられるほど、阿里山のシンボルとなっていった。今や森林レジャー用の山岳鉄道として、一般の観光客だけでなく、大勢の鉄道マニアで賑(にぎ)わっている。

 河合は鉄道敷設以外に、アメリカから集材機と製材機を取り入れ、木材の生産性向上にも努めた。併せて、植林を含む生態環境の保全に配慮しながらの伐採方法についても指導した。そんな努力の甲斐(かい)あって、営林事業は軌道に乗り、阿里山は木材の一大産地となっていった。

河合による阿里山森林開発は後の日本近代林業の範となる

阿里山森林開発のパイオニア、河合 鈰太郎

嘉義県阿里山の慈雲寺にある「琴山河合
博士旌功(せいこう)碑」(筆者撮影)

 その後、宜蘭県にある大平山、さらには中国大陸での森林開発に携わった河合は、やがて教授職を退き、晩年は木炭研究に取り組んだ。31年3月、河合は66歳で永眠した。台湾で罹(かか)ったマラリアの後遺症が死因の一つであったと伝えられている。

 それから間もなく、阿里山寺の境内に、河合を讃(たた)える石碑が建立された。ここは阿里山神社の神苑でもあり、戦後は「慈雲寺」という名前に改められた。

 石碑の正面には、京都学派の基礎を築いた哲学の権威である西田幾多郎の揮毫(きごう)により「琴山河合博士旌功(せいこう)碑」と刻まれている。「琴山」とは河合の雅号である。傍には「樹霊塔」も建っている。伐採された樹木の霊を慰め、自然の恵に感謝するために建てられたものである。

 河合による阿里山森林開発は、後の日本近代林業の範となった。その偉烈は計り知れないものがある。

 筆者が、ここを初めて訪れたのは2014年2月のことだった。その際、地元で茶業を営む郷土史に詳しい中年女性が同行してくれた。若い頃、日本に留学したこともあるという。目を閉じ、両手を伸ばしながら森林浴を楽しむ筆者に向かって彼女が漏らした「木には人間のように目も口も耳もない。しかし魂は宿っている」との言葉が今でも鮮明に記憶に残っている。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生