謎多き明治初期の軍人「吉原元帥」こと吉原小造

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(11)

台南市郊外に鄭成功配下の謝永常や趙勝と並んで祀らる

謎多き明治初期の日本軍人、吉原小造

台湾・台南市の地図

 台湾が世界史の中に組み込まれたのは16世紀中頃のことである。ポルトガルの船が台湾近海を航海中、船員が緑溢(あふ)れる台湾島を発見し、あまりの美しさに「イラ・フォルモサ」と叫んだと言われている。ポルトガル語で「麗しい島」という意味である。以来、「フォルモサ」は台湾の別称として定着していった。

 その後、台湾は1624年から37年間、オランダによって統治された。この間、26年にはスペインが台湾に上陸し、北部一帯を占拠するも、やがてオランダによって駆逐され、その統治はわずか16年で幕を閉じた。

 オランダに次いで台湾にやって来たのが近松門左衛門の人形浄瑠璃「国性爺(こくせんや)合戦」で有名な鄭成功である。明朝末期の中国人貿易商で海賊の親分でもあった鄭芝龍と、田川マツという日本人女性との間に長崎県で生まれ、7歳の時に鄭芝龍の故郷である福建省に渡り、やがて軍人となった。

謎多き明治初期の軍人「吉原元帥」こと吉原小造

吉原小造らが祀られる慶隆廟(筆者撮影)

 鄭成功は、清朝の侵攻を受け崩壊の危機にあった明朝を再建すべく、「反清復明」を誓って清朝と戦うも敗れ、中国大陸を追われて台湾に逃げ延び、オランダを追放して62年に「鄭氏政権」を打ち立てた。この時、台湾攻略の先鋒(せんぽう)となってオランダと戦った鄭成功配下の「白馬将軍」こと謝永常、その部下の趙勝と並んで、吉原小造という明治初期の日本軍人を祀(まつ)る廟(びょう)が台南市郊外の東区裕永路にある。

 ここを最初に訪れたのは2010年9月のことだった。台南市にある国立成功大学にて開催されたシンポジウムに出席した帰りに、廟の近くで生まれ育ったという主催団体のスタッフに「ヨシモトさんという日本人が祀られている廟がある」と言われて案内された。

謎多き明治初期の軍人「吉原元帥」こと吉原小造

中央に謝永常、左に趙勝、右に吉原小造の神像が並ぶ(筆者撮影)

 到着したのは夕方頃だったと記憶している。「慶隆廟」と書かれたアーチ型の門を潜(くぐ)り、廟内に入ってみる。中は薄暗く誰もいない。いささか不気味である。

 彼に促され祭壇に向かってみると、中央に謝永常、向かって左側に趙勝、そして右側に「ヨシモトさん」らしき神像が鎮座していた。祭壇前に置かれた朱色のパネルには筆文字で「吉原元帥」とある。

 いったん、外に出て廟の脇に行ってみる。すると、壁に廟の由来が綴(つづ)られたプレートが貼ってあった。

日清戦争後に台湾出征しゲリラの毒矢で戦死したとされる

 1962年、台南市立中山国民中学の校庭から1067人分の遺骨が出土した。この付近には昔、無縁仏を供養するための義塚があったらしい。それからというもの、近隣住民の枕元に謝永常が現れるようになり、やがて、官民問わず、たくさんの寄付金が集まって廟を建設することになったという。

 食い入るように見詰めていると、ランニング姿の初老の男性が缶ビールを飲みながら近寄ってきた。地元住民らしい。具体的な説明は聞けなかったが、「吉原将軍」は「吉元将軍」とも呼ぶという。

 果たして実在の人物だったのか。はっきりはしていないが、日清戦争後の台湾出征に従軍した軍人との説が有力とされている。

 1895年4月、日清戦争に勝利した日本は、日清講和条約(下関条約)により、清朝から台湾を割譲することとなった。台湾への清朝からの通達は、調印2日後のことだった。

 当時、台湾は「化外の地」と呼ばれ、清朝政府からすれば、別に日本に奪われたとしても、惜しくも何ともない孤島でしかなかった。「台湾は海外の孤島であり、守り抜くことはできない」とする清朝政府に対し、落胆と悲憤に陥った台湾の人々は「清朝政府が自分たちを見捨てるのであれば、自力で台湾を死守するしかない」として、翌月、「台湾民主国」という新しい国を立ち上げ、日本による統治に抵抗した。

 これを受け日本は、反乱を平定すべく台湾に兵力を投入することと決し、明治天皇の義理の叔父に当たる北白川宮能久親王率いる近衛師団を台湾に派遣した。途中、初代台湾総督に命ぜられた樺山資紀一行と合流、台湾への上陸を果たす。

 迎え撃つ台湾民主国の兵力は台湾に駐屯する清朝軍約3万5000人、義勇兵が約10万人と推定される。だが、近代兵器を有する日本軍勢には敵(かな)わず、士気も規律も劣っていたため、台湾民主国は148日で崩壊した。吉原は、この近衛師団の直轄部隊を指揮した人物で、戦闘中、ゲリラが放った毒矢を受け戦死したらしい。

謝将軍のお告げで旧敵も祀るという台湾らしい大らかさ

 それにしても不自然である。謝永常と趙勝が生きた17世紀から200年以上も後の日本の軍人が、なぜ一緒に祀られているのか。

 数年後、再び廟を訪れるチャンスがあった。管理人らしき男性に、このことについて尋ねたところ、「理由は分からない。主神である謝将軍の神託に従っただけ」との答えが返ってきた。どうも腑(ふ)に落ちない。謎は深まるばかりである。

 すると、同行してくれた日本滞在歴11年の友人が「台湾には雑で大らかな人が多い。些細(ささい)なことは気にしない。これも台湾の魅力」と言って、不満そうな表情を浮かべる筆者を宥(なだ)めた。このミスマッチも台湾らしさなのかもしれない。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生