身命を賭して集落を守った飛行兵 杉浦 茂峰

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(8)

台南市安南区同安路に祀られる鎮邪安民の飛虎将軍

身命を賭して集落を守った飛行兵 杉浦 茂峰

台南市の地図

 台湾西南部にある台南市には、数多くの寺廟(びょう)や史跡が点在している。17世紀に台湾にやって来たオランダは、ここに根拠地を設け、続いて、オランダを駆逐した鄭成功(ていせいこう)一族、さらに清朝による制圧後も、台湾の政治、行政、経済の中枢として栄えた。古都の風情が漂うことから「台湾の京都」とも称される。

 台南市中心部から北西方面に5キロほどに離れた安南区同安路に、日本人を祀(まつ)る「鎮安堂飛虎将軍廟」がある。「鎮安」とは鎮邪安民、「飛虎」は戦闘機、あるいは空を飛ぶことを意味し、「将軍」は神として奉られる勇士の尊称を指す。

 その存在を知ったのは2009年秋のことだった。当時、台北駐日経済文化代表処に勤務していた台湾外交部のスタッフから「『スギウラさん』という日本の軍人が祀られているのに、日本では全く知られていない廟がある」と聞かされた。

身命を賭して集落を守った飛行兵 杉浦 茂峰

台南市にある「鎮安堂飛虎将軍廟」の正面(筆者撮影)

 それから数年後、同じく台南市にある烏山頭ダムを見学する機会があった。1930年に10年の歳月を要して完成したもので、この建設に尽力したのが日本人土木技師の八田與一である。台湾と少しでも関わりのある人であれば名前くらいは知っているだろう。

 見学を終え、次の場所に向かおうとしていたところ、ふと「スギウラさん」のことを思い出した。同行してくれた台湾の友人に頼んで所在地を調べてもらい現地へと向かった。廟の正面には、「歓迎 日本国の皆々様 ようこそ参詣にいらっしゃいました」と日本語で書かれた赤地に白文字の大きな横断幕が掲げられている。中に入ると、祭壇の右側に中華民国旗「青天白日満地紅旗」、左側に日本国旗「日の丸」が立てられ、日本人形や達磨(だるま)、日本刀が飾ってあった。

台湾沖航空戦で被弾し身を挺して惨禍から集落を守る

 それにしても、なぜ日本の軍人が神として祀られているのか。廟内に積まれてあったパンフレットには、こう書かれてあった。

身命を賭して集落を守った飛行兵 杉浦 茂峰

杉浦茂峰の神像(筆者撮影)

 その物語は44年10月12日に遡(さかのぼ)る。第2次世界大戦末期、アメリカ海軍空母機動部隊は、フィリピン進攻の前哨戦として、台湾に大規模な航空攻撃を挑んできた。台湾沖航空戦と呼ばれる戦いである。午前7時19分に上昇邀撃(ようげき)、20分には戦闘を開始した。これに対し、日本海軍の航空隊は、台南海軍航空隊、高雄海軍航空隊の零戦が応戦する。しかし、旧式で、しかも中古品、無線機すらも搭載されていない零戦は全く太刀打ちできず、次から次へと撃墜されていった。

 このうちの1機は海尾寮という集落の上空で無念にも敵弾を受けて尾翼より発火してしまう。「今飛び降りたら自分は助かるかも知れない。けども、何百戸という家屋は焼かれるだろう。竹や木と土で造られた家屋は、一旦(いったん)火が付くとすぐに焼かれるだろう」と判断したパイロットは、操縦桿(そうじゅうかん)を握り締め、機首を上げて急旋回し、民家を避けて、一気に東方の甘藷(かんしょ)畑へと飛び去っていった。

廟を建設すると豊作続き、集落の守り神として信仰集める

 集落は間一髪で、その惨事を回避できた。だが、零戦は空中で爆発し、操縦していたパイロットは落下傘で飛び下りる途中、不幸にして機銃掃射を浴び、高空から地面に叩(たた)き落とされ壮烈な戦死を遂げた。自分の命と引き換えにして、集落を火災炎上から守ったのである。無残にも、パイロットの遺体には上半身はなく、下半身だけが残っていた。軍靴には「杉浦」と書いてあり、後に、その人物が兵曹長の杉浦茂峰であることが判明した。享年20歳だった。

 それから間もなく、この集落では、毎晩のように白色の軍服を着た若い軍人の亡霊が出るようになった。人々は、危険を顧みず、身を挺して惨禍から集落を守った杉浦に間違いないとして、永久に彼の恩徳を顕彰するため廟を建設することとした。

 当初は小さな廟だった。だが、やがて集落の守り神として信仰を集めるようになり、しかも、不思議なことに豊作が続いたため、瞬く間に噂(うわさ)は広まり、毎日のように参詣者が訪れるようになった。

国民党の廟撤去要求を跳ね返す、神像が水戸に「里帰り」

 戒厳令が布かれていた頃、日本人を祀ることを不快に感じた国民党政権は、これを取り壊すよう命じた。これに対し、住民たちは廟を守るため、一丸となって抵抗し、最終的に撤去を免れたという。

 93年、廟は台湾風の豪華なものに生まれ変わった。祭壇には、杉浦を中心にして両脇に2体、金モールの刺繍(ししゅう)が施されたガウンを羽織った高さ30センチほどの木製の神像が鎮座し、遺族から贈られた杉浦の遺影が置かれてある。しかも、朝は日本国歌「君が代」、夕は軍歌「海ゆかば」が、祝詞として粛々と奉歌される。

 その後も筆者は近くに来ると必ず廟に立ち寄るようになった。2016年9月、そんな杉浦の神像が、杉浦の生まれ故郷である茨城県水戸市に「里帰り」を果たす。来日の際、茨城県護国神社において慰霊祭が行われ、雨の中、神像を神輿(みこし)に載せて市内を練り歩いた。その模様はテレビでも大きく取り上げられた。これまでは知る人ぞ知る廟だったが、今では多くの日本人が参拝に来るらしい。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生