花蓮港庁長を務めた行政官 江口 良三郎

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(7)

野球の普及に努め、原住民・漢族・日本人の融和を図る

 台湾の野球人気は凄(すさ)まじい。500台湾ドルの紙幣にも野球少年11人が飛び上がって歓喜している姿が載っている。

花蓮港庁長を務めた行政官 江口 良三郎

花蓮市の地図

 2014年2月公開の「KANO」という台湾映画がある。日本では翌年1月に「1931海の向こうの甲子園」という副題入りで公開され爆発的ヒットを呼んだ。1931年8月、甲子園初出場ながら準優勝を勝ち取った台湾代表の嘉義農林学校野球部の快進撃を描いた作品である。その原動力となったのは原住民たちだった。

 台湾における原住民とは、17世紀ごろに中国大陸から漢民族(中国人)が移住してくる以前より、台湾に住んでいた人々のことを指す。日本が統治していた頃の台湾では「蕃人」、やがて差別的な意味を含むものとして「高砂族」と言うようになった。

花蓮港庁に庁長として赴任、反乱勢力掃討に従事

 1906年、台湾初の野球チームが台湾総督府国語学校中学部に発足し、中学部に続いて師範部、さらに夜学校台北中学会にも結成された。これにより野球人気は瞬く間に広がり、やがて台湾の北部、中部、南部に統括団体が組織され、17年春ごろになると花蓮地域をはじめ多くの原住民が暮らす東部にも伝わってきていた。

花蓮港庁長を務めた行政官 江口 良三郎

花蓮港庁長を務めた江口良三郎=東台湾研究会編『嗚呼江口庁長』(1926年)より

 1920年、「台湾州制」(律令第3号)により、台湾の行政区分が変更され、従来の12庁から台北州、新竹州、台中州、台南州、高雄州、台東庁、花蓮港庁の5州2庁となる。「州庁」は「府県」に相当し、州の長は知事、庁の長は「庁長」と呼ばれた。この年の秋、花蓮港庁に庁長として赴任してきたのが台湾総督府民政部蕃務本署理蕃課長の江口良三郎という人物だった。

 江口は1869年、佐賀県生まれで、日本の統治が始まった直後、25歳の時に台湾に渡り、陸軍に入って治安を脅かす反乱勢力の掃討作戦に従事する。その後、警察界に転じ、1910年には蕃務本署に配属され、以来、蕃務行政畑を歩んだ。花蓮港庁は原住民の人口割合が高い。故に原住民問題に精通する江口への期待は大きかった。

 江口は原住民、特にアミ族と漢民族、そして日本人との融和を図るべく、あるスポーツを取り入れる。それが野球だった。江口は大の野球好きだった。野球チームが次々と発足し、休日には「花崗山グラウンド」で競い合った。やがてスタンドも賑(にぎ)やかになっていった。原住民、漢民族、日本人が一緒になって野球を楽しむことで少しずつ一体感が生まれていった。

 当時、花蓮港庁には、アミ族少年たちによって編成された野球チームがあり、漢民族の林桂興という監督が指導に当たっていた。もともと彼らは物を投げることに関しては天性の才能があった。野山を走る獲物はもちろん、飛翔(ひしょう)する鳥に石を投げて撃ち落とすほどのコントロールまで持っていたのである。打つ能力も抜群だった。

アミ族のチーム「能高団」結成、台湾や日本遠征で大活躍

 江口は、この野球チームに関心を持ち、メンバー全員を花蓮港農業補習学校に入学させて「能高団」という野球チームを結成する。「能高団」という名前は、地元に聳(そび)える能高山に因(ちな)んだもので江口が命名した。

花蓮港庁長を務めた行政官 江口 良三郎

花蓮港鳥踏石公園内にある鳥居、奥に紀念碑がある(筆者撮影)

 「能高団」は驚くべき強さで台湾中を沸かせ、信じられないほどのブームを巻き起こす。25年には日本に遠征して各地を転戦し、強豪校相手に好成績を残した。

 野球の普及に努める一方で江口は庁長として道路建設、築港、さらに農業、林業、漁業の発展に取り組み、マラリア撲滅にも汗を流した。住民たちの憩いの場として公衆浴場や無料宿泊所も新設した。

花蓮港庁長を務めた行政官 江口 良三郎

江口の徳を顕彰する紀念碑(筆者撮影)

 日本人を中心に、たくさんの人々に原住民の習慣や風俗を知ってもらいたいと「蕃族館」の設立も計画した。しかし、完成を見ることなく、26年、この世を去った。それから間もなく、江口の遺徳を顕彰すべく、住民たちによって、「江口庁長頌徳」と刻まれた石碑が建てられる。やがて、その周辺は「江口良三郎紀念公園」として整備され、江口を地元の守護神としているのか、石碑の前には鳥居も造られた。

石碑に落書き相次ぐ、紀念公園整備も名称は変更

 台北市内から台鉄(台湾鉄道)北廻線の自強号(特急)に乗って約2時間強、花蓮駅で下車し、そこからタクシーで10分ほどの場所にある。だが、近年、日本人の顕彰を快く思わない人間よる石碑への落書きが相次ぎ、昨年8月に公園名が「江口良三郎紀念公園」から「花蓮港鳥踏石公園」に名称変更された。日本人としては複雑な気持ちになる。

 総じて台湾の人々は「親日」である。日本人の中には、その理由を「日本の統治を評価しているから」と思い込んでいる人がいる。確かに日本の統治を肯定的に見る向きがあるのも事実だが、みんながみんな無条件に称賛しているわけではない。

 当時、日本人による台湾の人々に対する差別や搾取も少なからずあった。抗日暴動も何度も起こっている。国共内戦に敗れて国民党と一緒に中国大陸から移り住んだ人々と彼らの子孫、いわゆる「外省人」も日本に厳しいとされる。先人の功労を誇りに思いながらも、「ありのままの台湾」を見詰める態度が日本人に求められる。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生