「敬天愛人」を実践した隆盛の長男 西郷 菊次郎
【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(6)
外務省入省後台湾へ、宜蘭庁長として堤防建設し洪水防ぐ
西郷隆盛は「空前絶後の偉人」と評されるだけあって、日本史上、最も人気のある英雄である。「敬天愛人」を座右の銘とする西郷は、相手が誰であろうと分け隔てなく接し、多くの人々に慕われ、今でも敬意と親しみを込めて「西郷さん」と呼ばれている。
その西郷の長男である菊次郎は、1861年、西郷が奄美大島に潜居していた際に出会った島妻の愛加那との間に生まれた。9歳の時に西郷家に引き取られた菊次郎は、その後、アメリカ留学を経て、17歳で西南戦争に従軍する。この時、右足に銃弾を受け膝下を切断し、以後、義足を装着することとなった。
戦後、外務省に入省した菊次郎の所に台湾赴任の要請が飛び込んで来たのは、日清戦争が終わって間もなくのことであった。台湾が清朝から日本に割譲されることになったため力を貸してほしいという海軍大臣で叔父の従道からの依頼であった。台湾に渡った菊次郎は、台北県支庁長を経て、97年5月、宜蘭庁長に任ぜられる。
5年半の在任中、菊次郎が最も力を入れたのが地元を流れる宜蘭川の堤防建設であった。宜蘭川は、普段は風光明媚(めいび)な河川だが、当時は、豪雨になると忽(たちま)ち氾濫(はんらん)し、濁流が民家や田畑に流れ込み、住民は洪水被害に悩まされていた。
ある日のこと、宜蘭地方は早朝から雨が降り続いていた。やがて雨脚は強くなり、ついに暴風雨となった。しばらくして一人の住民が菊次郎の元へ慌ててやって来た。宜蘭川が氾濫しているという。
菊次郎は地図を広げ、部下に現場に向かうよう命じた。夕刻、ようやく雨は止(や)んだものの、集落一帯は洪水被害を被った。翌日、菊次郎は不自由な体を押し、小船に乗って巡回した。その惨状を目の当たりにした菊次郎は、従来の堤防を高くする以外に洪水被害を防ぐ方法はないと判断する。
工事は1900年4月から始まった。今のように大型の土木機械があるわけでもない。全てが人海作戦である。菊次郎は延べ8万人もの作業員を動員し、巨額の資金を投じて、スタートから1年5カ月後、全長約1700メートルにもなる巨大な堤防を完成させた。人々は、この堤防を「西郷堤防」と呼んだ。これにより「宜蘭は水害の知らない土地」となっていく。
抵抗するゲリラに帰順を説得、罪を許し仕事与える
もう一つ、菊次郎の功業として挙げられるのが、「土匪(どひ)」と言われるゲリラの帰順である。台湾の統治が始まった頃、これに抵抗する土匪による抗日暴動が頻発していた。当初は武力によって制圧に当たったものの、逆に暴徒化を促すだけで何の効果もなかった。
菊次郎が宜蘭庁長となって間もなく、第4代台湾総督に児玉源太郎、民政長官(旧民政局長)に後藤新平が就いた。2人は土匪を排除するためには、討伐ではなく「帰順」しかないと考える。「招降に応じれば過去は不問とし、生計は保障する」との策である。
菊次郎は即、実行に移した。宜蘭地域における土匪の親分たちと面会し、「帰順すれば今までの罪は全て許す。仕事も与える。ただし、必ず改心して二度と騒擾(そうじょう)は起こさぬように」と説いたのである。彼らは応諾した。西郷堤防の建設に際しても、多くの帰順した土匪が作業員として工事に加わっている。
慈悲の心で民に接す、徳政碑・おみくじで偲ぶ住民
住民は菊次郎の徳政を讃(たた)えて「西郷庁憲徳政碑」を建立した。花崗岩(かこうがん)で造られた石碑で、台座を含めると高さ約4メートルもある。
庁長を依願退職して台湾から引き揚げた後、菊次郎は京都市長となり、1928年に68歳で帰らぬ人となった。訃報に接した台湾の人々は、これを悼み、数日後、徳政碑の前に祭壇を設け、神式の追悼式を行ったという。
今年2月初旬の台湾訪問の折、宜蘭地方にまで足を延ばし、菊次郎が建てた旧庁長官舎「宜蘭設治紀念館」を訪ねると、菊次郎研究をライフワークとする90歳の郷土史家が出迎えてくれた。菊次郎は今でも住民に愛されているという。
しかも、中国南宋の武人である岳飛を祀(まつ)る地元の「岳武穆王廟(びょう)」に「西郷おみくじ」なるものまであるらしい。「台湾文化を大切にした菊次郎は、この廟が台風被害を受けた際、その再建に尽力した。これに感謝すべく廟守が菊次郎の名前が入った『西郷おみくじ』を作った」という。
残念ながら、十分な時間がなく廟を見学することはできなかったが、「西郷おみくじ」のコピーを用意してくれていた。そこには「善を修めよ」云々(うんぬん)とあり、最後に菊次郎の名前が記されている。
続いて徳政碑へ。長年の風雨による劣化で字跡が見えない箇所もあるが、格調高い漢文で西郷の治政が刻まれている。徳政碑によると、菊次郎は清廉潔白、性情温厚、無私無欲の人物で、常に住民に寄り添い、慈悲の心を持って接したという。徴税に当たっても決して無理強いせず、困窮する人々の救済に努めた。まさに「西郷どん」の教えを継承し、台湾において「敬天愛人」を実践したのであった。
拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生








