撃沈された第38号哨戒艇の艇長 高田 又男

【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(5)

夢枕に立ち「部下を日本に帰せず悔しい」

漁民有志が軍艦模型を奉納、砲塔が回り軍艦マーチ流れる

高雄市の地図

高雄市の地図

 台湾南部の高雄市は、世界有数のコンテナ港を有し、西は台湾海峡に面しており、南はバシー海峡に近く、南北に愛河が流れる「水の都」である。温暖な気候に恵まれ、年間を通してマリンスポーツが楽しめ、南国ムードたっぷりのエキゾチックな雰囲気が漂う。

 しかも、ビルやマンションが林立する一方で、日本が台湾を統治していた頃に建てられた日本式の木造家屋も数多く散見され、まるで大正、昭和初期の日本にタイムスリップしたような感覚が味わえる。

 第2次世界大戦期、高雄市には南方展開のための本拠として日本海軍の左営軍港があった。戦後、日本から「中華民国」になってからも、これらは受け継がれ「中華民国海軍」の左営基地として機能し、海軍将校養成の軍官学校も置かれている。

 そんな「海軍さんの街」に日本海軍の軍艦模型を祀(まつ)る廟(びょう)がある。南西部の鳳山区紅毛港にある「保安堂」である。

 今から10年ほど前のことである。近くのホールで開かれたシンポジウムに招かれ、研究発表した帰りに国立高雄科技大学(旧高雄第一科技大学)で教鞭(きょうべん)を執る友人に「これから面白いところに連れて行く」と誘われ案内されたのが保安堂だった。ちょうど廟の建て替え中で、隣にある丸いトタン屋根の小ぢんまりとした仮設の廟へ。

撃沈された第38号哨戒艇の艇長 高田 又男

「魂だけでも日本に帰れるように」と漁民によって奉納された「蓬」の模型(筆者撮影)

 中に入って仰天した。祭壇の左側に全長約2メートルの「38にっぽんぐんカん」と記された軍艦模型が祀られていたのである。「か」が片仮名で書かれてあるのが妙に気になる。

 筆者の驚いた様子を見た管理人が、笑いながら電源スイッチを入れる。すると砲塔が回り始めた。何ともコミカルである。

 さらに埃(ほこり)を被ったラジカセからは「軍艦マーチ」が流れる。いやはや愉快であった。管理人へのインタビュー、そして当時、廟に積まれてあったリーフレットによると、保安堂の由来は凡(およ)そ次のようなものだった。

 戦後間もなくのことである。ある日、地元の漁夫が出漁した際、不意に頭蓋骨(ずがいこつ)を拾い上げた。そこで水難事故で命を落とした人々を慰霊するための「海衆廟」に祀ったところ、どういうわけか大漁が続いたため、1953年に小さな祠(ほこら)を建立し「保安堂」と命名、頭蓋骨を「海府尊神」として弔い、いつしか地元の守護神として信仰を集めるようになった。「保安」という名前には「村民たちの海上や居住地での生計を神様が無事に守って下さる」との願いが込められていた。

バシー海峡で150人もの第38号哨戒艇「よもぎ」の乗員が犠牲に

 それから数年後、ある老漁夫が朝早く漁に出た時のことである。その日は湿った空気が流れ込んで妙に蒸し暑く、漁夫は、つい船上で居眠りをしてしまった。すると、夢の中に海府尊神が現れ「廟を建て直してくれないか」と告げたという。

 同じ頃、高雄港の拡張工事に携わっていた日本人の夢枕にも日本海軍の士官が出てきて「セメント500袋を用意し、廟を建立してほしい」と依頼し、さらには日本語のできない霊媒師が、いきなり流暢(りゅうちょう)な日本語で、自分は戦時中に沈没した日本海軍「第38号哨戒艇」艇長の「オオタ」であると話しだすという珍事も起こったらしい。この時、「部下を日本に帰すことができず悔しい」と語ったという。

 そこで地元の漁夫有志たちは「せめて魂だけでも祖国に帰れるように」と軍艦模型を作って奉納することにした。やがて海府尊神は「海府大元帥」と呼ばれるようになる。

 その後、この第38号哨戒艇は44年11月23日、フィリピンのマニラから台湾に向かっていた途中、バシー海峡でアメリカの潜水艦からの魚雷攻撃を受けて撃沈された「蓬(よもぎ)」であることが判明する。この時、乗船していた約150人もの乗員も犠牲となった。さらに日本の防衛研究所で調べた結果、艇長は「オオタ」ではなく海軍予備大尉の高田又男であることが分かり、乗員全員の名簿も探し当てた。

再建された保安堂に軍服姿の高田の神像、撃沈された日には慶典も

撃沈された第38号哨戒艇の艇長 高田 又男

海軍軍服を着た高田又男艇長の神像(筆者撮影)

 保安堂は2007年に移転、13年末に再建され、仮廟から新廟に遷座した。青色の瓦屋根が印象的で、富士山や桜、菊花紋章といった「日本」を想起させる絵が描かれている。廟内向かって左側に旭日(きょくじつ)旗をバックにした軍艦模型があった。船腹の「38にっぽんぐんカん」の「カ」の文字は「か」に修正されてある。中央の祭壇には複数の神像が据え置かれ、その脇に勇ましく凛(りん)とした表情で正面を見詰める白色の軍服を着た高田の神像が鎮座し、遺族から贈られたという高田の遺影も飾られてあった。

 新廟の完成に併せて新しく作られたリーフレットを開くと、その内容は以前と少し変わっていた。史実を正確に描き出すのは実に難しい。

 近ごろは、日本からの参拝者も増えているという。「蓬」が撃沈された11月23日には慶典が開かれる。保安堂を管理する地元の人々は、「ここを台湾と日本の民間交流におけるプラットホームにしたい」と考えているようである。交通の便は悪いが、もし台湾に行く機会があれば、ぜひ訪ねてほしい。

 拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生