音楽は命の恩人
みんなを応援し励ます歌を
盲目のシンガーソングライター 板橋かずゆき氏に聞く
盲目ながら、シンガー・ソングライターとして活躍する板橋かずゆきさん。「みんなの心に響く、誰かを応援する歌を作っていきたい」と話す。音楽の道に進むまでの波瀾万丈な人生と、人々に伝えたい思いについて話を聞いた。
(聞き手=石井孝秀)
人生は一度きり
夢は違う形でも必ずかなう
幼少時に緑内障を患ったと聞きました。

いたばし・かずゆき 1970年青森県出身。3歳の頃に視力が弱いことに両親が気付き、6歳で親元を離れ青森県立盲学校入学。友人からの誘いで音楽を始め、15歳から作詞作曲を始める。2005年、第2回ゴールドコンサート(日本バリアフリー協会主催)で準グランプリ受賞。17年、演歌歌手川中美幸さんのCDシングル「津軽さくら物語」で作曲家としてメジャーデビュー。公式サイトhttp://itakazu.com/
3歳ぐらいの頃だ。大学病院で手術し、医者から「将来的には完全に失明する可能性がある」と言われたそうだ。責任を感じた母は「私の目を息子にあげれば、片目だけでも普通に見えるようになりませんか」と尋ねた。でも、視神経の病気なので、目の移植は視力回復にはつながらなかった。
悩んだ母は幼い僕を病院の屋上に連れ出した。車が好きだった僕は、工事現場で働く乗り物を屋上から眺めていたが、その時、突然母から「かずゆき、ここから飛び降りて死のう」と言われた。その言葉と情景は今でも覚えている。
後で知った話で、屋上といっても3階か4階程度だったようだが、子供ながらに死ぬのは怖かったのだろう。母に「嫌だ」と言ったところまで覚えている。
音楽を始めたきっかけは。
僕は弱視のために地元の学校へ行けず、車で2時間の盲学校に入ることになった。自由のない寄宿舎生活が始まり、家にいる4歳年下の弟をうらやましく思うなど、寂しさでいっぱいになった。
しかも、成長するにつれて視力を失い、ついに6年生から点字で勉強するようになった。中学になると勉強も難しくなり、反抗期を迎えたことや将来への不安などから、親や先生に反抗することも多かった。「自分なんか生まれてこなきゃよかった」と人生に希望を見いだせずにいた。
そんな時、同級生がギターを持ち出して音楽を始めた。バンドに誘われた僕はボーカルを担当したが、やり始めると思いのほか周囲の反応が良くて、見事にはまってしまった。
当時はどちらかというと、人前で歌ったり話したりするのは苦手で、「見えない」というコンプレックスのため、とても消極的な子供になっていた。でも、音楽を始めたことで自分がどんどん変わっていき、見えないことへの悩みや親への恨みも忘れるようになった。
そんな中、ふと「自分は目が見えないからこそ盲学校のメンバーたちに出会い、一緒に音楽をやることができた。目が見えなくても僕は幸せなのかもしれない」と思うようになった。18歳ぐらいの時だった。
音楽が人生に大きな転機を与えたのですね。
音楽は僕にとっての命の恩人と言える。
初めて生きることに喜びを感じたことで、親へ感謝の歌を作ろうと思い立った。頭に浮かんだのは、病院の屋上で母親から飛び降ることを誘われたあの時の記憶だ。母もあの時は辛かったんだと気付き、その時の様子を歌詞にして、「ブラインドマン」という歌にした。
学校を卒業してからは病院で鍼灸(しんきゅう)マッサージの仕事をしていたが、2001年に米国の同時多発テロが起こり、命や人生について真剣に考えるようになった。人生は一度きり、自分が本当にやりたかったことは何かと思ったとき、「ミュージシャンになりたい」という答えが浮かんできた。それで10年勤めた病院を辞め、音楽の道に進むことを決めた。
いろんな活動をする中である日、知り合いからゴールドコンサートという障害を持つミュージシャンの音楽コンテストに出ることを勧められた。それに「ブラインドマン」の曲で申し込むと、テープ審査を通過し、東京での本選で準グランプリを受賞した。05年のことで、それ以降、年に100回のライブや講演会に携わるようになった。
ご家族は「ブラインドマン」について、どう感じたのでしょうか。
実はそのコンサートには両親や弟も見に来た。夜にお祝いを兼ねて家族で食事をした時、母が当時の様子を話し出した。そして、「目の移植が無理と言われ、自分は何一つあげることができない。この子は辛い人生になるし、自分もどう育てればいいか分からない。だから、一緒に死のうと本気で思った」と告白された。
3歳の僕が死ぬのを拒否した時、母は「じゃあ、かずゆきは頑張れるの?」と尋ねたそうだ。僕は覚えてないが「頑張る」と答えたのだという。母は「この子が生きようとしているのだから、私も死ぬのをやめて、この子を厳しく育てようと決めた」と教えてくれた。
母はその時、弟を妊娠していた。僕は自分や母だけでなく、知らないうちに弟の命まで救っていた。
音楽を通じて、なぜ自分を変えることができたのでしょうか。
自分を表現するものを手に入れることができたからだ。歌は自分の思ったことを何でも歌詞にできる。気持ちを表現したり、胸の中の思いを吐き出せる音楽に出合ったことで、僕の人生は拓(ひら)けた。自分の得意な表現分野を手に入れることで、人は強くなり、世界が広がっていくのだと思う。
今後、取り組んでいきたいことや伝えたいことは。
人にはみんな何かの役目がある。僕のできることは歌うことだ。
誰かを救うのは簡単ではないが、音楽には不安を解消させたり安らぎを与えたり、心に栄養を与えて励ます力がある。
また、子供たちに夢は必ず叶(かな)うということを伝えたい。僕は以前からスポーツが好きで、特に野球が大好き。盲学校や社会人の盲人野球の大会で優勝したこともある。甲子園や野球選手への憧れもあったが、あきらめるしかなかった。
でも以前、甲子園に出場した青森県の八戸学院光星高校が、僕の「大丈夫」という曲を応援歌として甲子園で歌ってくれた。この歌は自分への応援歌でもあった。
選手としては甲子園には行けなかったが、その代わり、彼らが僕の歌を憧れの甲子園に連れていってくれた。夢はあきらめなければ、違う形でも叶うと信じている。