土地の守護神となった森林保護員 小林 三武郎
【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(4)
「モウイッカイサン」の愛称 温情で接し住民を助ける
台湾では、日本の地蔵菩薩を祀(まつ)る祠(ほこら)にも似た「土地公廟(びょう)」と呼ばれる朱色の小さな建物が、あちらこちらで散見される。土地公とは、文字通り、その土地の守護神である。台湾で最もポピュラーな中国大陸から伝わった道教に由来する民間信仰で、日本で言えば、道祖神、産土神(うぶすながみ)に当たる。
土地公は別名「福徳正神」と呼ばれる。古代中国の周朝における税吏だった張福徳という実在の人物らしい。ただし、それ以外にも複数の説があり、はっきりしたことは不明である。
神像や神画の形で祀られる土地公の多くは、白髭(しらひげ)で、慈悲深く柔和な表情を浮かべ、手には杖(つえ)や古銭を持っている。主神として祀られるだけでなく、規模の大きい廟では陪祀(ばいし)、さらに廟だけでなく工場や食堂内の片隅に祭壇を設けて祀られるケースもある。
そんな数ある土地公廟の中に、小林三武郎という日本人が福徳正神となって祀られているとの噂(うわさ)を耳にし、先だって、台湾を訪れた際に現地に赴いた。台湾北東部の宜蘭県中央部にある冬山郷太和村という小さな集落である。道路の両脇に広がる青々とした茶畑を見ながら歩を進めていくと、古びた土地公廟があった。廟の中央には福徳正神の神画が置かれ、その前に菓子や生花が供えられてある。
では、小林とは一体、どんな人物なのか。廟の隣にある「茗桂茶園」という茶農家を訪ねてみた。そこの主人によると、小林が生まれたのは「ナゴヤ」であることは分かっているが、戸籍謄本が見当たらず、遺族も特定できないため、詳細は知らないという。ただ、地元の古老からの言い伝えが残っているとして、その記録が綴(つづ)られた「地元に功労のあった日本人の小林三武郎さんを記念する祠を正式な福徳正神(土地公)に昇格した沿革」と題するリーフレットを持って来てくれた。
家畜の繁殖を手伝う
それによると、小林は日本が台湾を統治していた頃、違法伐採の取り締まりや木材の積み出し作業を管理する「森林保護員」として、この集落に日本から派遣されてきた人物だったらしい。ちょび髭に自分で散髪した角刈り頭、履いている草鞋(わらじ)も手作り。人情味に溢(あふ)れ、支配者と被支配者関係にありながら、驕(おご)り高ぶることなく誰にでも優しく接した。貧しさに苦しむ住民たちを不憫(ふびん)に思い、薪(まき)用の樹木を盗みに山に行く人がいても見て見ぬふりをし、それどころか、麓にあるガジュマルの巨木の下に、茶の入ったヤカンを用意し、道行く人々の喉を潤してくれたという。
小林は雄の鶏やアヒル、豚を飼っていた。住民たちは餌を浪費するばかりの雄を家畜する必要はない。小林は住民たちに雌の家畜を奨励し、交配する時は自分が飼っている雄を無料で提供して、これを手伝った。
しかし、家畜に不慣れな小林がやっても、なかなか上手(うま)くいくはずがない。失敗を繰り返しても、不機嫌な顔を見せず、常に笑みを浮かべながら「もう一回」と言って何度も交配を試みたという。次第に人々は小林のことを「模一蓋桑(モウイッカイサン)」と呼ぶようになった。
小林は中年を過ぎてから隣の集落に住む未亡人と結婚して、80歳余で死去した。正確な死亡日は不明だが、1944年秋に地元で送別式が行われたらしい。住民たちは小林との別れを嘆き悲しんだ。
リーフレットによると、「葬儀の時は当地で行われた葬儀の中でも最も盛大なものであった。古老の言い伝えによると参列者の多くは普段見かけない制服に身を固めた威厳のある日本の官僚たちで、日本式の法事は日本の和尚によって行われた、地元住民は葬儀の雑用を引き受けた」という。想像するに小林は、森林保護員の中でも、それ相応のポジションにあったのだろう。遺体は地元の共同墓地に埋葬された。
神託で「福徳正神」に
戦後、日本が台湾から引き揚げた後も住民たちは小林を尊敬し続け、石造りの祠を建て、地元の守護神として祀ることにした。台風で祠の屋根が吹き飛ばされてしまったこともあったが、その後、住民たちのカンパによって再建される。
さらに2001年初めごろには、「偉大な外国人である小林さん」が、何と福徳正神になったと囁(ささや)かれるようになる。そこで、現地の土地公廟に加え、巾山国王、明山国王、独山国王という山神「三山国王」を祀る永福宮に確認した結果、全ての神々が一致して、小林は福徳正神と化したため廟に祀るようにとの神託を受けたという。
こうして、04年9月29日、旧暦8月16日の大安吉日に神事が執り行われ、小林を祀っていた祠は「小林福徳正神廟」に昇格した。今でも旧暦8月16日には「小林福徳正神晋禄安座紀念日」として祭事が開かれるほど、多くの人々の信仰を集めている。
小林の存在については未(いま)だ判然としない部分が多々ある。しかし、かつて、このような先人がいたこと、そして未だ台湾の人々から愛されていることを、同じ日本人として誇らしく感じる。
拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生