夢枕に立った海軍少将、薩摩人の 田中 綱常
【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(2)
女性宮主に「廟を建てよ」 幸運呼ぶパワースポットに
台北県知事など歴任
田中綱常という名前を知っている人は、そうはいないだろう。明治維新後、陸軍に出仕し、続いて海軍に転じて少将になった薩摩人である。そんな田中を祀(まつ)る「東龍宮」という廟(びょう)が、台湾南部の屏東県枋寮郷隆山村にある。台湾全土を走る台鉄(台湾鉄道)屏東線の終着駅、南廻線の始発駅となる枋寮駅から歩いて10分ほどの場所である。
見上げるほどの大きな建物で、台湾風の派手やかな色彩の廟ではあるが、所々に日本をイメージした装飾が施されている。しかも、スピーカーからは近所迷惑になるのではないかと心配してしまうほどの大音量で「軍艦マーチ」が流れる。
1842年に鹿児島県に生まれた田中が初めて台湾に赴いたのは29歳の時だった。71年、宮古島から琉球王国の首里王府に貢物を納めた帰り、琉球御用船が台風による暴風で台湾東南部の八瑶湾に漂着する。漂着した69人のうち3人が溺死、上陸後に迷い込んだ66人中、54人が牡丹(ぼたん)社を名乗る先住民族「パイワン族」に惨殺された。いわゆる「牡丹社事件」である。
日本は懲罰のためとして、3年後、征討軍を台湾に派遣し「征台の役」の敢行に踏み切った。これに先立ち征討軍の先遣隊が台湾に向かった。その中の一人が若き日の田中であった。
続いて田中は、日本による台湾の統治が始まった直後、初代台湾総督となった樺山資紀(かばやますけのり)の指示により、澎湖列島行政庁長官として再び台湾へ。澎湖列島は中国大陸と台湾の間に位置する島嶼(とうしょ)群である。その後、台北県知事を歴任し、晩年は貴族院議員に勅撰(ちょくせん)され、1903年に61歳で死亡している。
乃木希典らの神像も
確かに台湾とは無関係ではない。しかし、それほど大きな功労を残しているというわけではなく、心揺さぶるエピソードめいたものもない。なぜ、ここまでして大々的に祀るのか。
東龍宮の祭壇には、「田中大将軍」と書かれた看板を背に、白髭(ひげ)を生やした軍服姿の田中の神像が鎮座する。しかも、その傍らには、乃木希典、北川直征の神像も置かれてある。
乃木は日露戦争を語る上で欠かすことのできない人物である。難攻不落の旅順要塞を落とした近代随一の国民的英雄で知られる。乃木は日露戦争に従軍する前、第3代台湾総督を務めた。在職期間は僅(わず)か1年4カ月だったが、台湾近代化の礎を築いたとして、今でも台湾の人々から尊敬を集めている。乃木の神像は、田中の神像よりも華やかで、黄金色の軍服が印象的である。
一方の北川は田中と同じく征台の役に加わった薩摩人で、山間の渓谷を偵察中に、物陰に隠れていたパイワン族と遭遇し、首を刈られ22歳で亡くなっている。田中は北川を随分と可愛(かわい)がっていたらしい。
さらに日本髪を結った和服姿の中山奇美、良山秋子という2人の日本人女性の神像まで。彼女たちは従軍看護婦だという。いずれも、飄々(ひょうひょう)とした愛嬌(あいきょう)のある表情を浮かべている。
東龍宮を建てた女性宮主の夢枕に田中の霊が現れたのは92年、彼女が28歳の時だった。「廟を建立せよ」との神託を受けた彼女は早速、「田中綱常」なる人物を探した。すると、実在の人物であることが分かり、当時、住んでいた自宅に小さな祭壇を設けた。
その後も田中は頻繁に彼女の前に現れるようになる。そこで近隣の財界人から集めた寄付金と私財をなげうって、98年秋、この東龍宮を完成させた。
神託通り日の丸発見
筆者が東龍宮を最初に訪れたのは2013年のことだった。その際、彼女は、たくさんの所蔵史料やアルバムを広げながら、廟の由来について丁寧に説明してくれた。
ただ、彼女は日本語ができない。田中からの神託は何語だったのか。筆者の問いに彼女は「もちろん日本語だったが、何となく言わんとしていることが理解できた。しかし、長らく交際を続けるうちに自然と中国語が通じるようになった」と答えた。
ある時は、その昔、日本人が掘った洞窟に行くよう言われ、実際、そこへ足を運ぶと日本国旗「日の丸」が出てきたという。廟の入り口には、その日の丸が額に入って掲げられている。若干、薄汚れているが、日の出の太陽を象徴する紅色の丸が、何とも言えない威厳と風格を醸し出している。
田中の生まれ故郷である鹿児島県にも出向いて、彼の遺族を探したこともあった。残念ながら、まだ消息は追えていないという。
帰り際、その5体の神像を写真に収めようとカメラを向けた時である。宮主の顔が一瞬にして険しくなり声を荒らげ、筆者の腕を掴(つか)んだ。撮影する時は、必ず田中の許しがなければならないという。筆者は詫(わ)びを入れ、彼女を通じて田中から許可を得た上でシャッターを押した。
正直、これらのエピソードを初めて聞いた時は、俄(にわ)かに信じられず、失礼ながら途中で笑いが込み上げてきた。だが、宮主の目は真剣そのものだった。今では彼女の地道な取り組みが功を奏し、幸運を呼び込むパワースポットとして参拝者が後を絶たない。
拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生