福田財務事務次官の“セクハラ”問題でメディア側の責任には触れぬ新潮
◆不快な労働環境強要
福田淳一財務事務次官の“セクハラ”問題が収まらない。週刊新潮(4月19日号)で明らかにされたテープが“本物”なのか、セクハラされたといわれる女性記者が自社の媒体で告発せず、どうして週刊誌を使ったのか、など議論が尽きないのだ。
週刊新潮(4月26日号)がこれらの疑問を受けて第2弾を放った。前号に載せたテープとは別のテープを紹介している。「2016年11月」のもので、この時、福田氏は主計局長だった。前号の内容が今年「4月上旬」で、森友学園などの話題が出ており、酒席とはいえ、ホットな話題についての取材だったことがうかがえる。
これに対して、2年前のものは、同誌が文字で再録(編集)したものを見る限り、テーマの絞られた取材のやりとりという感じではなく、福田氏のメディアへの感想と他愛もない“おしゃべり”だ。ただその中に「キスしたいんですけどぉ」とか「好きだからキスしたい」など、セクハラ内容がある。これはアウトだ。
酔えば卑猥(ひわい)な話が飛び出してくるのは酒席ではよくあることだが、最近はめったなことは口にできなくなった。相手が「不快」と感じれば、即ハラスメントになるからだ。しかし、女性記者が男性取材対象と二人きりで酒の席で会うというとき、そういう話題が出てくることは容易に想像できる。
しかも、女性記者は長年、福田氏からセクハラを受けてきた、というから、彼がそういう酒癖を持っていることは重々承知していることだ。情報を得るために、不快な席に出向かざるを得ない労働環境を強いていたメディア側の責任も見過ごせないのだが、同誌は触れていない。
◆記者クラブが障壁に
今回の告発で最も批判されているのが「なぜ自社で報道できないか」だろう。同誌は「記者クラブ」がブレーキをかけていると指摘する。つまり、「セクハラに反発したりすれば、その女性記者が所属する社は財務省から嫌がらせをされて“特オチ”が待っている」というのだ。「これは検察や警察、各省庁の記者クラブにもあてはまる」という。特オチとは特ダネの反対で、その社だけが重要な情報を報じなかったことをいう。
記者クラブとは省庁側がつくっているものではない。メディア側が組織したもので、その運営はクラブが決めている。特オチを出さないシステムといっていい。もし「社に迷惑をかけないためにセクハラを我慢している女性記者」がいるとしたら、これもメディア側の姿勢が批判されるべきだ。
結局、この女性記者は自社に相談したものの、「社に迷惑がかかる」として週刊誌に情報を流した。それにはよく「女性記者が特定され、二次被害に遭わないように」という配慮があったと解説されるが、それは違う。既にネットでは女性記者の所属、名前、写真までが“晒(さら)されて”いる。しかも、告発を握りつぶした上司までが明らかだ。「社のために我慢してくれ」と言ったのかどうか、こう説得した上司は女性だった。
◆白黒をつける企画を
専門性もなく、舌足らずな若い女性記者が政治、経済分野の現場に投入され出したのはテレビからだ。今では珍しくないが、相変わらず技量の満たない者が多い。ただ、取材対象がほとんど男性のため、若い女性は名前を覚えてもらったり“うっかり”重要情報を漏らしてもらうこともあるから、メディア側からすれば重宝する。「少しぐらいのことは我慢しろ」という体質が、むしろ一般民間企業よりもメディアの方に残っている。同誌はこの辺のことも報じておくべきだ。
ハリウッドのプロデューサーのセクハラが告発されてから全世界に広がった「ミー・トゥー」(#MeToo)だが、お隣の韓国でも有名監督や俳優、ノーベル賞候補といわれた老詩人、現役の知事までが暴かれて、辞任に追い込まれるなどしているものの、わが国ではそうでもない。告発のリスクが相変わらず高いためだろう。だからこそ、テレビ局は自ら告発の口火を切るべきだった。
もともと日本は下品にならない程度の艶話は許容されていた社会だった。だが最近は、時所をわきまえず、品も落ちたこと、また社会の物差しが変わり、今どきは「下ネタが好きな昭和のおじさん」の「唾棄すべき」話に成り下がった。
既にテレ朝記者は明らかにされているのだから、この際、両者の言い分を公平に取り上げる企画を組んで白黒はっきりさせてはどうだろうか。
(岩崎 哲)





