政策そっちのけの「政局目線」で本質を捻じ曲げて政治を論じる朝毎

岸田総裁は、就任会見で三つの覚悟を訴えたが、朝日・毎日には届かなかったようだ。

安倍氏に批判の矛先
 「典型的な政治部記者の発想のような『政局目線』記事」。外交評論家の宮家邦彦氏は、菅義偉首相の外交をめぐって新聞があまりにもトンチンカンなことを書くので、外交記事は政治部ではなく、外信部記者に任せてはどうか、と皮肉まじりに提言している(産経9月9日付)。

 菅外交について某有力紙は「外交は3回のみ」とか、「対韓関係が『停滞した』」などと書いたが、外交は回数でなく中身、対韓関係は簡単には動かせない。外交のプロならずとも当然の話で、それを菅批判に仕立て上げるのは「政局目線」。宮家氏はそう指摘するのだ。

 政局とは字のごとく政治の局面だが、実際には政権与党内の権力や人事の変動を指す。自民党総裁選がまさにそうだ。立憲民主党がいくら自民党に負けじと代表選を行っても、それは政局とは呼ばない。

 それで政治部記者は永田クラブ(首相官邸)や平河クラブ(自民党本部)といった記者クラブを足場に党内の誰が実力者で、どんな力学が働いているのか、派閥や人間関係の動きに目を向ける。そんな記事を長年、書き続けると政局目線が板に付き、政策そっちのけで政治を論じるようになる。

 というわけで目下、紙面を覆い尽しているのが「政局目線」記事だ。例えば、朝日。自民党新総裁に岸田文雄元外相が選出されると、30日付社説は「帰趨(きすう)を決めたのが結局は、永田町の中の数合わせであり、安倍前首相ら実力者の意向に左右された」とし、相も変わらず「森友学園」を持ち出し、「負の遺産の清算どころか、政権運営全般に安倍氏の影響力が強まらないか、先が思いやられる」と、ひたすら安倍晋三前首相に矛先を向ける。

 毎日の30日付社説も「『安倍・菅』路線からの脱却を」と唱え、「国民の審判は衆院選で」とうそぶく。それを言うなら、安倍前首相は政権奪還の2012年総選挙を含め6回の国政選挙で国民の審判を受け、信を得て政権を担った。その事実には目をつぶり、都合のいいときだけ「国民の審判」を持ち出すのはダブルスタンダードだ。

考え違う人物は悪者

 「数合わせ」というのは政局記事の常套(じょうとう)文句だ。だが、選挙がある限り「数」を合わせ、多数が勝者となるのは当然の理屈だ。野党共闘も文字通り「数合わせ」だが、そっちは無罪放免か。共産党の志位和夫氏は選挙もなく20年以上も党を独りで裁く「独裁」だ。数を合わさなければよいと言うなら、大いに褒めればどうか。共産党は立憲民主党と閣外とはいえ、「連立」を組むそうだが、こっちの数合わせは奨励するつもりか。

 「実力者」はどこの社会でもいる。その意向に左右されてはいけないのか。問題は「意向」の中身なのに、自民党に対しては実力者を端(はな)から悪者扱いする。それは朝毎の意向に沿わないからだ。とすれば、朝日にかかれば、考えの違う人物は全て悪者になる。多様性の尊重は嘘(うそ)っぱちだ。

 最近は「3A」が流行(はや)り言葉だ。安倍氏、麻生太郎氏、幹事長に就いた甘利明氏のことだ。とりわけ甘利氏の金銭問題に飛び付いている。が、金銭問題は法に触れれば司法が動き、倫理に触れれば選挙で落ちる。甘利氏は両方ともクリアし国会に席を置く。それを平気で否定し、潰(つぶ)しにかかるのは人民裁判に等しい。

岸田氏の覚悟響かず

 元来、政治は「政(まつりごと)」(書経)だ。人々を統治し、社会の秩序を維持することだ。国を守り、国民を豊かにすることだ。大局はそこにある。岸田氏は総裁就任会見で、外交・安全保障の三つの覚悟を語った。民主主義の価値観を守り抜く覚悟、平和と安全を守り抜く覚悟、地球規模の課題に貢献する覚悟。外相歴4年8カ月の岸田氏らしい覚悟で、これは大局だ。

 だが、朝毎は見向きもしなかった。「政局目線」だから響かないのだろう。そんな記者が政治の本質を捻(ね)じ曲げる。宮家氏が言うように、お引き取りいただきたい。

(増 記代司)