約30年間絶えていた鹿角紫根染・茜染を復活
鹿角紫根染・茜染研究会の関会長「今からがスタート」
約30年間絶えていた鹿角紫根染(かづのしこんぞめ)・茜(あかね)染の復活を果たした団体がある。鹿角紫根染・茜染研究会(関幸子会長、会員68人)だ。染めの技術と原料の植物栽培にめどを付け、色合いも納得のできる段階まで達した。若い後継者も育ち、関会長は「今からがスタート」と熱い思いを抱く。(伊藤志郎)
1300年前の奈良時代から伝承、皇室へもたびたび献上
紫根染・茜染とは、ムラサキとアカネという植物の根を使って染める草木染だ。秋田県北部、岩手県と接する鹿角地方は、十和田湖と八幡平の間に位置する。自生のムラサキやアカネが豊富で、1300年前の奈良時代から伝承されてきた。江戸時代には盛岡藩の手厚い保護を受け産業として発展。「南部紫」は京紫、江戸紫と並ぶ日本三大紫の一つとされ、とりわけ鹿角の色が鮮やかで全国に比類のない染め物といわれた。いずれも高貴な色合いが特徴だ。
化学染料が日本に入り明治期にいったん途絶えたが、栗山文次郎氏(国の無形文化財)と息子の文一郎氏(秋田県無形文化財)によって復興・伝承されてきた。文次郎氏の染めた布は伊勢神宮へ上納され、皇室へもたびたび献上されている。会長の関さんが鹿角紫根染に触れたのは、小学校の教員時代。社会科の仲間と共に栗山家を訪ねたところ、「その素晴らしさに息をのみました。ハッとする出会いでした」と振り返る。
当時、社会科5年の「伝統に生きる」で教科書に載っていたのは「輪島塗り」。「郷土にこんな素晴らしいものがある。鹿角紫根染を伝えたい」との思いが強くなり、社会科教員のご主人と2人で栗山家に通い、写真やビデオに収録し、平成2年には社会科教材を作り上げた。
染め方の概要は、サワフタギという木の灰汁(あく)で下染めを120回以上も繰り返し(これだけで1~2年かかる)、1年間寝かせ(枯らし)、その間に絞り模様を施す。翌年にムラサキやアカネの根を臼でつき、染料を抽出して本染めしたのち数年寝かせ色を落ち着かせるという難儀なもので、古代技法では1反完成させるまで5年以上はかかった。また絞り模様は、花輪絞、大枡(おおます)絞、立枠(たてわく)絞、小桝絞の4種類が伝わる。
復元・再現に努力、原料栽培や後継者不足解消は順調に
関さんは同2年7月から栗山文一郎さんの元で下染め作業を、妻のケフさんから絞りの技術を教わった。ところが3年6月、文一郎さんは71歳で死去。それから約30年間、鹿角紫根染・茜染の復元・再現に努力を傾けた。
16年に関さんは学校を退職。公民館の郷土史学習会やNPO法人で活動を始める。26年からは独自に鹿角紫根染・茜染研究会で活動を進め、文化庁の「伝統文化親子教室」や、花輪のアーケードに75枚のタペストリーをなびかせるイベントも開催。明治安田生命や東北電力の支援も受け、地元小中高での染め体験や花輪市民センター文化祭で披露してきた。30年には一般社団法人化し、昨年は県の「ふるさと秋田応援事業」に選ばれ、子供たちにも栽培と染めの体験ができる見通しが立ってきた。鹿角市立平元小学校4年生の15人に昨年5月から授業を開始。ニホンムラサキの栽培から収穫、染色体験まで行い、最後に絞りをほどいて現れた模様に大喜び。「ぼくの住んでいる所には紫根染があるので誇りに思います」とか「この鹿角市のよさをほかの人たちにも広めていきたい」との感想も見られた。
古代鹿角紫根染・茜染が途絶えた大きな理由は、原料不足と後継者の不在だった。ニホンムラサキは栗山家では自生種を使っていたが今では絶滅危惧種に。そこで関さんは南部紫根のムラサキの種を入手し、ご主人と一緒に約200平方㍍の畑で栽培に成功。希少なサワフタギの代わりに椿(つばき)の灰汁を使った下染めにも取り組んできた。ホームページとフェイスブックで紹介。自宅に工房を構え、体験教室を随時開いており、後継者も育っている。「ケフさんに染め物を見せたら、『いまドキドキしています。素晴らしい。文一郎を超えました』と言って喜んでくれました」「ようやく目指す色に近づいたかなという気持ちです。今が新たなスタート。これからも精進しながらいい色を出していきたい」と関さんは話す。