北方領土問題に心を添えよ

太田 正利評論家 太田 正利

「固有領土」世界に発信

性悪説的に臨む外交も必要

 2月7日は「北方領土の日」だった。「よき敵ござんなれ」――筆者が子供の頃年号を憶えるのによく使っていた手法(!)だが、1853年は、ペリー提督率いる米艦隊の浦賀沖への突然の出現(「太平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった四杯(四隻)で夜も寝られず」と揶揄(やゆ)される程の大騒ぎを起こした)の年だった。今回は、案外忘れられているように見える「北」の熊の問題を提起しよう。実は徳川時代からこの方面も必ずしも静謐(せいひつ)な状態にはなかった。

 ペリー来航2年後の1855年2月7日に、日露両国間に最初の条約が伊豆の下田において締結された。相手はロシア使節プチャーチンだった。下田、箱館、長崎を開港し、エトロフ、ウルップ両島間を両国の国境とした。樺太は幕末以来、日露に両属する雑居地とされ、所属は不明確だった。日本は、これまでの北蝦夷(えぞ)地という名称を「樺太」と改称して、1870年(明治3年)に樺太開拓使を設置した。当時、同島在住の日露両国人の間には紛争が絶えなかった。かくして、明治政府は、ロシアとの衝突をさけるため、1875年「千島・樺太交換条約」を締結、これにより、日本が樺太全土をロシアに譲り、その代わりに占守島からウルップまでの千島列島を確保したのである。この際重要な点は、現在論議の対象になっているエトロフ、国後等のいわゆる「北方四島」は、日本固有の領土として、条約交渉における論議の対象にすらなっていなかったことだ!

 明治37~38年(1904~5年)の日露戦争の結果、大陸の問題を除くほか、樺太の南半分が日本に割譲され、この状態が前大戦時まで継続した。先の日中戦争(当時は「支那事変」)中のノモンハン事件(1939年5~9月)は満州・蒙古間の国境粉争だが、実質的には日ソの軍事衝突で、日本側にも多大な損害が出たものだ。さらに、前大戦末期、具体的には1945年8月8日、ソ連は、当時有効だった「日ソ中立条約」という国際法に違反して突如対日宣戦して満州などに進攻し、終戦後も千島などへの進攻を継続した。

 その結果、エトロフ、国後のみならず、北海道の一部である歯舞、色丹島をも占領した。1956年の「日ソ共同宣言」では、日本との平和条約締結後にはこの両島を日本に引き渡すべしとの合意があったが、その後、クラスノヤルスク合意(97年11月)、イルクーツク声明(2000年3月)等を経たものの北方領土問題は解決に到っていない。なお、筆者は北海道担当大使だった際、これらの島々を望見して、決意を新たにしたものだった。

 そもそも、ロシアにとっては、第2次大戦の結果得られたものを見直す可能性を検討すること自体がナンセンスなのだ。帝政ロシアの時代から南千島というのは太平洋への玄関口だった。かつての「旅順」港が日露戦争の結果失われたのを契機というべきか、かかる南千島という重要な拠点を確保して周辺の重要な海域を制圧せんとする考えは、同じく米国をも魅了していたのである。日米戦争当時、米は千島列島を確保し、ここに軍事基地を構築することを夢想していた。しかしながらソ連の参戦により、この海域がモスクワのコントロール下に置かれることになってしまったのである。06年8月だったか、日本の蟹(かに)漁船拿捕(だほ)事件(日本人1人死亡)が起きたが、漁民の死亡事件は五十数年ぶりだった。プーチン大統領は、中国が09年秋に国境問題を最終解決した事例を引き、妥協による解決への模索を示唆するだけだった。

 この際、日本人として心掛けるべきことは、幕末の日本人の「こころ」に帰ることだろう。戦後既に70年、戦中・戦後の経験を持たぬ人々が大多数になってきているが、当時の日本人は、「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」(本居宣長)の精神は保ち続けていた。また、「蛍の光」の歌詞も「筑紫の極み、陸(みち)の奥」、「千島の奥も、沖縄も」、「台湾のはても樺太も」と時代により変遷したが、「八州の内の護りなり」のところは不変だった。そして「至らん国に勲しく、努めよわが背つつが無く」――これら歌詞に残存する国土を愛する精神こそ日本人の基本である。

 力による現状の変更が許されない現代において、わが国は如何に振る舞うべきか。結論から先に言えば、先ずこれらの島々が歴史上明白なわが国の「固有の領土」たる所以(ゆえん)を世界に向かってアピールすることだろう。世界の目から見れば、ほんのチッポケな島のために日本は何を考えているのかとの言説を成す向きもあろう。他人が何を言おうが、信ずるわが路を行くのが人の人たる道である。

 世の中では、当方が何か「善意」を示せば、先方もこれに応えるだろうと考える日本人が多い。すなわち、筆者を含め日本人には孟子(もうし)等の「性善説」を信奉する人々が多いが、同時に「性悪説」(荀子(じゅんし))もあるのだ。かかる日本人の考え方は日本人の間でこそ通ずるが、世界はそんなに甘いものではない。まさに、トーマス・ホッブスのいう「人間は互いに対して狼である」「万人の万人に対する闘争」というのが国際場裏では常識たることを忘れてはならない。かかる精神で北方領土問題を見つめようではないか。

(おおた・まさとし)