公論を成す「篩」としての新聞
朝日騒動で問われる信頼
越え難い懸隔あるネット言説
朝日新聞が、福島第一原発「吉田調書」や従軍慰安婦「吉田証言」に絡んで起こした「虚報」騒動は、各種メディアが標榜(ひょうぼう)する「報道・言論の自由」の有り様に関して、侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を巻き起こした。
この流れの中で、2人の朝日新聞OBが勤務地の地方大学で脅迫を受ける事件が発生している。その一方では、産経新聞前ソウル支局長が訴追された一件は、朴槿恵(韓国大統領)執政下の韓国において、「報道の自由」の土壌が侵食されていることを示している。また、習近平(中国国家主席)執政下の中国における報道・言論への統制の動きも、広く知られるようになっている。日本の内外で「報道・言論の自由」の内実が問われる機会が続々と浮かび上がっている。
筆者は常々、言論を披露する媒体を「服装」になぞらえれば、次のようになるのではないかと考えてきた。もっとも、これは、筆者の政治学者としての印象であって、総ての人々にあてはまるものではない。
即ち、学術誌に載せる論稿が「燕尾(えんび)服」であるとすれば、『世界』や『中央公論』に類する雑誌に載せる論稿は、「背広」であり、雑誌や新聞のような活字媒体やウェブ媒体に寄せる二千字前後のコラムの類は、夏場の「クール・ビズ・スタイル」である。
そして、自ら運営するウェブ・サイトやブログでの発言は、「室内着」(ジーンズ、ティーシャツ)であり、ツィッターやフェイスブックのようなSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じた発信は、「下着姿」や「浴衣掛け」という按配になる。
学術誌に載せる原稿の執筆に際しては、「燕尾服」の着用に似て、典拠の明記や注釈の付記を含む様々な作法に則ることが、当然のように要請されている。「平服」や「クール・ビズ・スタイル」として雑誌や新聞に寄せる原稿は、「燕尾服」に比するほどの厳密さは求められないにせよ、歴とした編集者の眼を経る過程で、「公論」として世に出すに相応しいかが厳しく吟味される。
他方、「室内着」や「下着姿」、あるいは「浴衣掛け」の体裁で披露された言説には、そうした作法を踏まえることは要求されない。この種の言説は、その意味では誠に手軽なものであるけれども、その故にこそ、「公論」の拠り所となる信頼性は担保されない。こうした言説は、それを披露する人々に余程の自制が働かなければ、その質を保証できないのである。
「言論の自由」は、民主主義体制下において尊重されるべき基本原則であるけれども、その言論を披露するにも、本来は踏まえられるべき相応の作法がある。日本では、明治初年に発せられた『五箇条の御誓文』で既に「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ」と表明されているけれども、それ以降に「公論」の言葉で想定されたものは、たんなる「感情」の吐露や「思い付き」の表明ではない。
目下、ネットやSNSのような手段を通じて、大勢の人々が自前の意見を世に伝えることができるようになったとしても、その意見それ自体は「公論」を成すわけではない。それは、あくまでも、それぞれの時代における世の「空気」を知らしめる材料にしかならないのである。
「公論」を成すに値する諸々の意見を表明する際の前提条件は、相応の「識見」や「品格」の裏付けを持つ諸々の作法を踏まえることである。歴とした編集者の眼を経ることになる雑誌や新聞ならば、そうした作法を踏まえないで書かれた原稿は、予め「篩(ふるい)」に掛けられることになろう。ネットやSNSを通じて披露された「私家版」言説には、そうした「篩」を経た言説との間に越え難い懸隔があるわけである。
故に、雑誌や新聞のような既存の活字媒体の役割は、そうした「篩」を機能させる意味において、依然として重要である。ただし、朝日新聞に絡む騒動が期せずして暴露したように、その「篩」が言説それ自体の「見識」や「品格」ではなく、言説の中身に結び付いた「政治上のバイアス」を問うものになれば、日本の言論を取り巻く環境は閉塞(へいそく)したものになるであろう。
昔日の「露探」や今日の「売国奴」といった言葉が使われた言説は、「公論」を担うものとしては排除されるのが当然であろうけれども、その言説の中身の多様さは、確実に担保されなければならない。
朝日新聞の場合、「日本のナショナリズムを抑える」とか「アジア近隣諸国との友誼(ゆうぎ)を促す」という「篩」が従来、露骨に過ぎたのである。雑誌や新聞の編集に携わる人々が、自らの「篩」の扱いに際して慎慮を働かせるべき所以(ゆえん)であろう。(敬称略)
(さくらだ・じゅん)