北方領土叫ぶ「自由民主」 ロシアの暴挙との認識を

冷戦後に期待し、萎えた怒り

北方領土叫ぶ「自由民主」 ロシアの暴挙との認識を

会談に臨み、握手する安倍晋三首相(左)とプーチン大統領=2日、ロシア・ウラジオストク(AFP=時事)

 自民党の機関紙「自由民主」(9・6)の1面は「北方領土返還に向け粘り強く外交交渉を」のタイトルで佐藤正久参院議員のインタビューを掲載している。同党は9月3日を「ロシアの北方領土不法占拠に抗議する日」(リード)と定めている。

 政府主催の北方領土返還要求大会は「北方領土の日」(2月7日)に開かれ、各党から代表が出席するが、こちらは江戸時代の日露和親条約(下田条約)締結に因む。幕末に日露が国境を画定し、国後、択捉、歯舞、色丹の島々(北方領土)は国際的に日本固有の領土となった。

 しかし、北方領土問題の端緒は、1945年8月にソ連が日本との中立条約を破って参戦し、島々を掠(かす)め取ったことにある。この暴挙は8月15日終戦の後もやまず9月5日まで続いたことから、抗議や返還要求は8~9月の同時期に行う方が意味がこもる。

 記事中、国後島を8月に訪れた佐藤氏は「ロシア化」が進んでいるとの印象を述べている。「3年ぶりに同地を訪問した人の話によると、その時と比べて青と白を基調としたロシア風の建物が次々と建てられ、ロシア正教の教会も新設されているということです」「小中一貫校の…副校長はモスクワの大学を卒業したそうですが、『生まれたところに帰ってくるのは当たり前です』と極めて明快に答えた」と述べ、返還の際のロシア住民の反対運動を懸念した。

 もともとロシア人のいなかった島々に入植を進めたのは戦後不法占拠したソ連だが、そのソ連の崩壊によって返還への期待が生じ、怒りが萎(な)えたことは否めない。が、既にロシアは島の開発に着手している。同紙記事に書かれた佐藤氏の話だけでも3年の間に新たな開発が進み、副校長は国後島を故郷と強調した。この現実に佐藤氏は、「71年間変わらない状況に政治家として忸怩たる思いがしました」と嘆いている。

 これを打開しようと安倍晋三首相は、自民党がロシアに抗議する日の時期に訪露してプーチン大統領と会談し、ロシア経済分野協力担当相という新たな閣僚ポストを設けた。しかし、ロシアとしては経済協力と領土問題は切り離しており、貿易で日本側に利益があれば相応の対価と見て、それ以上でも以下でもないと考えるだろう。

 ソ連崩壊後、ロシア・エリツィン政権が北方領土の帰属問題を解決して平和条約を結ぶという東京宣言(1993年)、東京宣言を2000年までに実現するとしたクラスノヤルスク合意(1997年)は反故(ほご)にされている。体制移行して四半世紀のロシアから見れば、北方領土とは日本と交渉するだけで協力を引き出せる打ち出の小槌(づち)でしかない。

 我が国との帰属問題が未解決のまま北方領土で開発を続けるロシアの動きは、ソ連当時と同様の暴挙を行っているに等しいものだ。むしろ安倍政権は、戦前欧州の脅威だったドイツと結んで米英から敵視された歴史や、大戦末期に戦争終結の仲裁を頼もうとしたソ連に「万物は流転する」と手のひらを返されて北方領土まで侵略された歴史を思い出すべきである。

解説室長 窪田 伸雄