共産党に破防法答弁書 暴力革命闘争に頬被り

警官殺害など流血は史実

共産党に破防法答弁書 暴力革命闘争に頬被り

現在の札幌市中央区南6条西16丁目の通りの風景。1952年1月21日午後7時半すぎに付近の路上で自転車で帰宅中の白鳥一雄札幌市警察警備課長が自転車で後方から追ってきた犯人に背後からピストルで射殺された

 日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」3月23日付に、「日本共産党と『破壊活動防止法』に関する質問主意書」(鈴木貴子衆院議員提出)への政府答弁書(3月22日閣議決定)に対する反論が載った。

 山下芳生書記局長(当時)が22日のうちに国会内で記者会見した内容だが、会見での質問に答えたもので2面扱いとおとなしい。見出しは「政府の破防法答弁書」「山下書記局長 厳重に抗議、撤回要求」と形式的なもの。(4月11日、山下氏は健康上の理由で副委員長に、書記局長は小池晃前政策委員長が就任)。

 ところで、質問主意書と政府答弁書は衆議院のホームページで閲覧できる。質問主意書の要旨は、①破壊活動防止法(破防法)で定める暴力主義的破壊活動とはどのような活動か、②昭和57年(1982年)4月1日参院法務委員会で公安調査庁が破防法に基づく調査対象団体に左翼関係7団体、右翼関係8団体あると答弁したことの確認、③「左翼関係7団体」に日本共産党は含まれるか、現在も公安調査庁は同党を破防法に基づく調査対象団体と認識しているか、④昭和57年4月20日衆院地方行政委員会で警察庁が「日本共産党は敵の出方論に立った暴力革命の方針を捨てきっていないと判断している」と答弁したことへの現在の警察庁の認識、⑤戦後、日本共産党が合法政党になって以降、同党や関連団体が国内で暴力主義的破壊活動を行った事案があるか、⑥平成元年(89年)2月18日衆院予算委で不破哲三氏と石山陽公安調査庁長官との質疑などにみる日本共産党の「敵の出方論」に対する政府の見解――だ。

 答弁書の要旨は、①については、破防法4条1項の行為で、具体的には刑法上の内乱、内乱の予備または陰謀、外患誘致等の行為、政治上の主義や施策の推進、支持または反対する目的で刑法上の騒乱、建造物等放火、殺人等の行為をなすことなど、②と③については、日本共産党は現在においても、破防法に基づく調査対象団体である、④については、警察庁は現在も日本共産党の「いわゆる敵の出方論」に立った「暴力革命の方針」に変更はないと認識している、⑤については、政府は日本共産党が昭和20年(45年)8月15日以降、国内で暴力主義的破壊活動を行った疑いがあるものと認識している、⑥については、石山長官が答弁した「(議会制民主主義での共産党の党勢拡大は)政治的な最終目標であるのか戦略または戦術の手段であるのか、冷静な立場でもって敵の出方論に調査研究を進めている。直ちに共産党に規制請求すべき段階に立ち入っているとは思わない。敵の出方論には政権ができる前に不穏分子をたたきつけてやろうという問題がある…」などの通り――だ。

 山下氏の記者会見を報じた「赤旗」23日付では、同党の立場は質問主意書と答弁書でも触れている「89年2月18日の当時の公安調査庁長官に対する不破哲三副議長(当時)の質問で明らか」として、「調査の結論として、公安調査庁として公安審査委員会に、暴力破壊活動をやる恐れのある団体として(同法の)適用申請を1回もしていない」「公安調査庁が何を根拠にして、わが党の調査にあたったのかというと、これは内部確認だということだ」「わが党は党として正規の機関で『暴力革命の方針』をとったことは一度もない」と釈明している。

 これについては本紙が連載した「筆坂元日本共産党ナンバー3と田村自民党政務調査会審議役が対談(7)」(4月10日付)で筆坂秀世元共産党政策委員長が次のように明解に答えている。

 「51年綱領というのがある。今、共産党は51年綱領ではなくて51年文書と言い換えているけど、これは完全に暴力革命路線なんだ。共産党は、山下(芳生書記局長)君が『暴力革命なんていうことは過去も現在も未来も一切ない』と語っていたがそんなことはない。戦前は完璧に暴力革命路線。戦後も、51年綱領というのは暴力革命路線そのものだよ。だって、火炎瓶を投げたり、中核自衛隊を作ったり、山村工作隊を作ったり、実際そこに身を投じていった若者がいっぱいいたわけだからね」

 日本共産党が暴力革命路線を採った「51年綱領」は、51年10月の同党第5回全国協議会で決定された。50年にソ連が統制するコミンフォルム(共産党・労働者党情報局。ソ連・東欧・仏伊などの共産党が加盟)が米軍の占領統治下で合法政党にされた日本共産党に対する批判を同党が受け入れたものだった。以後、非合法な「軍事委員会」を作り、全国で数々の殺傷・破壊事件を起こした。

 筆坂氏は著書『日本共産党と中韓・靖国問題の真実』(ワニブックス)の中で、その後「日本共産党は、この誤りは徳田・野坂分派が行ったものであり、日本共産党はその後継ぎではない、などと開き直っている。だが野坂は、この後の党の中枢にも座り続け、火焔瓶闘争などに走った少なくない党員が、その後も日本共産党員として活動を継続していた。これをなかったことにして現在の共産党と無縁などという態度をとることは、それこそ歴史の改ざんである」と述べている。暴力闘争にかり出され、刑法上の取り締まりを受けて当然の党員らが多く党に残留し、かくまっていたのだ。ここに長きにわたる「調査」理由があろう。

 また、警察庁広報誌『焦点』269号(現行警察法施行50周年記念特集号)でも、「ところで現在、日本共産党は、当時の暴力的破壊活動は『分裂した一方が行ったことで、党としての活動ではない』と主張しています。しかし、同党が(昭和)20年代後半に暴力的破壊活動を行ったことは歴史的事実であり、そのことは『白鳥警部射殺事件』(27年1月)、『大須騒擾事件』(27年7月)の判決でも認定されています」と記している。

 これらの事件の中でも52年5月1日の血のメーデー事件という大規模な騒擾事件を受け、破防法が同年7月21日に制定された。その後、共産党は暴力路線を引っ込めたから同法適用を受けてないだけで、答弁書によるとまだ真意が探られ続けている。

共産党に破防法答弁書 暴力革命闘争に頬被り

軍事方針を記した『球根栽培法』と拳銃の作り方の教科書

 ところで、『焦点』269号が指摘の白鳥一雄警部射殺事件(52年1月21日、札幌市・南6条16丁目付近で発生)に共産党側は逮捕者の冤罪(えんざい)を主張し再審請求運動で隠蔽(いんぺい)しようとした。が、事件から60年も経(た)つと事件当時の関係者が真相を語り始めた。11年3月にHBC(北海道放送)ラジオが「インターが聴こえない~白鳥事件60周年の真実」を放送。事件当時、北海道大学生で「中核自衛隊」だった元共産党員・高安知彦氏の証言が注目され、60年の節目の12年に各紙が報道。読売新聞2月24日付も「札幌市警の警備課長だった白鳥一雄警部(当時36歳)が射殺された『白鳥事件』で、当時の日本共産党札幌地区委員会の地下軍事組織だった『中核自衛隊』元隊員が読売新聞の取材に応じ、事件数日前に白鳥警部を銃撃しようとして失敗していたことを証言した」と、未遂事件の存在をも伝えた。

 同年12月に発刊された『白鳥事件 偽りの冤罪』(渡部富哉著・同時代社)は、51年に日本共産党非公然活動歴のある著者が内側からの視点を添えて詳しい。白鳥警備課長銃撃を指示した村上国治・日本共産党札幌委員会委員長兼軍事委員会委員長は旧陸軍通信兵、白鳥警備課長を射殺した実行犯の佐藤博・日本共産党札幌委員会軍事部員(逃亡先の中国で客死)は旧海軍震洋隊隊員など軍歴にも触れ、銃器に慣れた戦争と時間的距離の近さを感じる。つまり、日本共産党「軍事委員会」は現実的な脅威だった。共産党の当時の暴力革命路線に対する警察庁の認識は不変だろう。

 現在の共産党の「正規の機関で『暴力革命の方針』をとったことは一度もない」との説明は、非正規ならぬ非公然活動の含みだろうか。1922年結党から94年間の党史を共産党は誇るが、御都合主義の塗り替えや、不都合への頬被りでは済ませられないことを政府答弁書は示している。

解説室長 窪田 伸雄