「表現の不自由展」中止 憲法持ち出す不見識

行政の関与「検閲」ではない

 抗議が殺到したことから、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が中止になった問題は、法廷闘争に入ることになった。前回もこの欄(8月31日付)で取り上げたテーマだが、文化庁の補助金不交付に至り、表現の自由をめぐる議論はさらに激化する様相を呈している。

 文化庁が26日、芸術祭への補助金7800万円を公布しないと発表したことに対して、芸術祭実行委員会会長で、愛知県知事の大村秀章は「憲法21条が保障する表現の自由に対する重大な侵害だ。合理的な理由もなく不交付にするのは表現の自由に触れる」と強く反発。国を相手に法的措置を講じる方針を明らかにした。

 企画展には、昭和天皇の写真を燃やし、その灰を踏み付けるところを映した動画、元慰安婦を象徴した少女像など「反日」思想を具現化した作品ばかりが展示されたことから、批判が高まった。アーティストの舘鼻則孝は「アメリカではアートの社会的価値や意義が強く尊重」されているのに対して、「日本では『美しいものを愛でる』という意味合いが強い」(「『あいちトリエンナーレ』への疑問」=「Voice」10月号)と述べているが、そうした日本人の感性が“政治プロパガンダ作品”に対する拒否反応を起こした要因の一つだったのかもしれない。

 一方、大村は企画展の中止直後から、憲法21条を持ち出して、作品に口出しすることは「検閲」になると弁明していた。補助金不交付に対する反発もそのスタンスからだが、ここで憲法を持ち出すのは筋違いであろう。なぜなら、文化庁は不交付の理由として交付申請手続きが「不適当」だったことを挙げているからだ。

 つまり、愛知県が展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識しながら、問い合わせるまで申告しなかったことが問題視されたのだから、それに反論するなら、交付申請手続きが適切だったことを具体的に示すべきなのである。それをせず憲法を持ち出すのは不見識であり、実行委会長・県知事としての責任逃れに映る。

 憲法が保障する「表現の自由」については、月刊「Hanada」10月号で、ジャーナリストの門田隆将が論考「『表現の不自由展』はヘイトそのものだ」で指摘しているように、憲法12条に「国民は、これを濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とあり、無制限ではないことは明白である。

 この議論の中で、まず明確にしておくべきことは、今回の問題が個人の「表現の自由」が侵害されたという性質のものではないことだ。公金を投入し公立美術館で開催する公共性の高い芸術祭における企画展としてふさわしいのか、企画から実行に至るまで十分な検討がなされたのかということが問題となっているのである。企画展が中止となったのは、それがなされなかったからではないか。

 前回のこの欄で、保守系の月刊誌が展示作品は日本人への「ヘイト」であり、展示会は「反日展」にすぎず、芸術祭にはふさわしくないと、強く批判する特集を組んだことを紹介したが、その後、店頭に並んだ左派誌の「世界」「創」にはそれとは逆に、企画展を擁護する論考が目立つ。雑誌の思想傾向と出展作品に込められたメッセージが重なり合うからだろう。

 補助金不交付についての文化庁発表は、愛知県の有識者検証委員会が「安全対策などの条件が整い次第、速やかに再開すべきだ」とする中間報告をまとめ、大村も「しっかりと受け止め、条件を整え再開を目指したい」と述べた翌日に行われた。このタイミングを見ると、不交付は、企画展の再開強行に対する牽制(けんせい)もあったのだろう。

 「芸術」の名に借りた政治プロパガンダに、政府の補助金が使われないようにするのはどうすべきか。議論の深まりに期待したい。(敬称略)

 編集委員 森田 清策