人間の区分けと「差別」 性別表示を避ける大学
個人の性的問題の政治化
自己の性自認と生物学的な性別に違いのある性同一性障害者が戸籍上の性別を変更する場合、性別適合手術を要求している法律の規定について、最高裁はこのほど「合憲」との判断を示した。
妥当な判断だが、一方で2人の裁判官は「社会の変化などを踏まえると、違憲の疑いが生じていることは否定できない」と補足意見で述べている。健康な体に手術を強いることは個人の自由を制約することになる上、性別変更に手術を不要とする国も増えていることが影響していると思われる。
いわゆる「LGBT(性的少数者)」運動では「同性パートナーシップ制度」や「同性婚」ばかりが議論されがちだが、実は性同一性障害者の「人権」もこの運動のもう一つの論点である。
最高裁判断の補足意見にあったように、もし手術が「違憲」となった場合にどうなるのか。銭湯や温泉では、男性生殖器が付いていても、性自認が女性なら女風呂に入ることを拒否できないのではないか。
そんな考えが頭にあったので、月刊「WiLL」2月号に掲載された田中和生(文芸評論家、法政大学教授)の論考「性の多様性の向こう側」を興味深く読んだ。これは「現代文学を読む」と題した続き物の論考で、主題は日本の現代文学だが、田中はその中で、同大学の教員控え室の掲示に授業で配布する資料について、学生の性別が不用意に表示されるようなものは避けるようにとの注意書きがあったことを紹介している。なぜなら、「大学に登録されている性別と生活上の性別が一致していない学生が、教室にはいるかもしれない」からだという。冒頭で紹介した「社会の変化」とはこういうことだろう。
この問題で、田中は「人間の区分けによって制度的な差別があることは、間違っている」としている。その例として、女性への参政権や米国での人種差別を例に出して、現在、世界は男女平等や人種差別がない方向に向かうのは当然のことになっているのと同じで、LGBTについても「いずれそのような理解になると思う」としている。
だが、男女平等や人種差別の問題と性同一性障害の手術問題には、根本的な違いがある。前者は「人間の区分け」を認めた上での平等であるのに対して、後者において手術なしでの性別変更を認めることは区分けの仕方の変更になる。そして、男性生殖器が付いていても性自認が女性の人を「女性」とすることは、その人間の裸体を表出してしまうような場所では、それを見る側の女性の人権侵害という問題も出てくる。
同性愛者や性同一性障害者などが抱える性的な問題については「それを解決するのは個人の問題を追求する文学ではなく、同様の問題を抱える人々が連帯する政治だということになる」と田中は指摘する。今、ブームになっているLGBT運動がまさにそうなのだが、しかし、性別の区分けの仕方変更などは「制度的な差別」の解消というよりも「制度的な混乱」をもたらす危険が高いことが分かってきた現在、この運動を、今は立ち止まって、冷静に見詰め直す時であろう。
編集委員 森田 清策