トランスジェンダーの女子大入学 「心の性」で受験資格曖昧

存在意義否定し「女子大無用論」に

 月刊「新潮45」8月号への寄稿で、「彼ら彼女らは子供を作らない」と指摘して、LGBT(性的少数者)への過剰な行政支援に疑問を呈した衆議院議員の杉田水脈(みお)(自民党)に対して、活動家らによる激しい批判が巻き起こったが、こうした抗議活動で最も懸念すべきことは政治家だけでなく、言論活動に携わる人間や出版社が、行き過ぎたLGBTの権利拡大運動に疑問を持っていても、萎縮してしまい押し黙ってしまうことだ。活動家らが杉田に執拗(しつよう)なバッシングを続けるのは、それを狙っているからだとも言える。

 新聞・テレビは既に、LGBT支援一色で、その風潮は月刊誌にも広がりつつある。そうした中、「新潮45」は9月号でも、LGBT問題を忌避することなく、関連テーマの二つの論考を掲載した。杉田の寄稿については、同誌編集部にも少なからぬ圧力があったと推察する。これからもいかなる圧力にも屈しないことを願っている。

 さて、その二つの論考とは、著述家の樫原(かたぎはら)米紀(べいき)の「『おかま』はよくて『男』はダメ お茶の水女子大の『差別』」と、筑波大学准教授の星野豊の「一橋大院生『同性愛自殺』裁判をどう見るか」だ。

 後者は同誌7月号に発表した「国立市『多様な性』条例に異議あり」に続き、2015年4月に起きた、いわゆる「一橋大学アウティング事件」に関連したテーマだ。アウティングとは、レズ(L)やゲイ(G)、バイセクシャル(B)の性的指向や性自認の問題であるトランスジェンダー(T=性同一性障害など)であることを、本人の了解を得ずに暴露する行動のこと。

 事件は同性愛者であった同大学の大学院生が、友人の男子学生に愛情を告白したことがきっかけとなった。告白した男子学生によって、ゲイであることを友人に知らせたことにショックを受け、大学院生が自殺を図り死亡したのだ。

 現在、東京地裁で、死亡した大学院生の遺族が大学に対して損害賠償を求める裁判が進行中。論考は性的少数者の権利擁護という観点に偏らずに、客観的な視点から裁判の焦点を論じているという点で、評価できる。

 一方、前者で特筆すべきことは、最近の風潮の中では、LGBT活動家らによって、口にすれば「差別」と、レッテルを貼られかねない「おかま」という文言をあえて使っていることだ。こうした姿勢は自由な言論を守るという観点からは時代錯誤として切り捨てるべきものではないだろう。

 ただ、1927年生まれの樫原は、「私世代の言葉づかいをお許し願いたいのだが」と断りながら、「『おかま』(決して蔑称ではない、ゲイの一般俗称である)」と述べているが、今はゲイとおかまを同一視することは間違いとされていることは指摘しておこう。

 一口にLGBTと言っても性的指向の問題であるLGBと、性自認の問題のTを同列にして語るからややこしくなる。「おかま」でない同性愛者もいると言われても、すぐにはピンとこない読者もいるだろう。

 一方、ある地方自治体のLGBT啓発パンフレットによれば、「体が男性」でも「心が女性」の人が、女性を好きになるのであれば、その人はレズビアンとしている。心の性を優先して考えるからだという。

 これだと、何とも奇怪なことではあるが、同じLGBTでも、性的指向だけの場合は、比較的理解しやすい半面、性的指向と性自認の問題が重なっている場合が複雑になる。だから、同性のカップル以外であれば、現在の婚姻制度のままでも結婚可能で、子供が生めるカップルもいるということになる。だから、LGBTという概念で人を分けること自体が混乱の元であるというのが筆者の認識である。

 その意味では、杉田の寄稿も説明不足であった。「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない。つまり『生産性』がないのです」と述べたのだが、指摘したようにLGBTの中でも、子供をつくることができるカップルはいないとは限らないのである。また、LGBT当事者であっても、いわゆる「異性愛者」(普通の人)と結婚して、子供を生んでいる人も少なくない。だから、その論旨はいいのだが、子供をつくらないのは「同性のカップル」と説明すればより正確だった。

 さて、「新潮45」への寄稿で、樫原が取り上げたお茶の水女子大だが、2020年度から、入学試験の出願資格を「戸籍または性自認が女子の場合」と変更すると発表した。つまり、体は男性でも、自分の性別を女性と認識するトランスジェンダーも受け入れることにしたのだ。

 言い換えれば、女子大でありながら、「多様性を包摂する社会への対応」(室伏きみ子学長)として、入学資格を女性以外にも拡大するというのである。これに対して、樫原はそんな中途半端なことはせずに、「いっそこの際、男女共学にしてしまったらいいではないか」と、少なからぬ市井の人々が抱きそうな素朴な疑問を投げ掛けている。

 トランスジェンダーの女子大への入学資格で、最大の問題は本人の「心の性」が本当に「女性」であるかどうかを、どうやって確認するか、である。心の問題だけに、たとえ医師の診断があったとしても、ベースは本人の申告だ。

 しかも、お茶の水女子大の場合、「自己申告」だけでも受験可能という。そんなことから、樫原は「これでは最悪のケース、世間が揶揄するような“もぐりの男お茶大生”が誕生する可能性だってある」とした上で、「国立大学なのに男は入れません、2年後に『性自認が女』だけ入れてあげるとは、恐ろしく時代錯誤の逆差別ではないか」と皮肉っている。

 「性の多様性」あるいは「性的少数者の権利擁護」を“絶対善”とする現在の風潮に惑わされ、女子大がトランスジェンダーだけ特別扱いするのは、「女子大」の存在意義を自ら否定することにつながる。女子大が「女性」の概念を曖昧にしてしまったのでは、「女子大無用論」が出てきて当然だろう。(敬称略)

 編集委員 森田 清策