同性カップルの“非生産性”論争 出産念頭にした婚姻制度

民法の考えと同じ杉田論文 “LGBT派”の排他性露わに

 月刊「新潮45」8月号に載った論考「『LGBT』支援の度が過ぎる」をめぐり、寄稿者の保守派の衆院議員、杉田水脈(みお)(自民党)がマスコミや国会議員などから激しい批判にさらされている。ゲイを名乗る人間からは、事務所に「殺してやる」と脅迫メールが届き、被害届けを出したという。

 筆者は前回のこの欄で、現在のLGBT(性的少数者)の権利拡大運動について「“多様な性全体主義”とでも呼びたくなるような危うさを感じる」と書いた。その意味は活動家、支援者そして一部行政の動きが「寛容な社会の実現」を標榜(ひょうぼう)しながら、実際はその運動に対する批判を許さない不寛容な社会にしてしまうことへの危機意識の表明だったが、LGBTへの行政支援に疑問を呈した杉田への批判をみると、その懸念が姿を現したと言える。

 LGBTの権利拡大運動は、パートナーシップ制度を導入する自治体を増やし、最終的に「同性婚」を法制化させることを狙っているが、保守派の識者からもその運動に対する反対論が論壇にあまり出ないのは、活動家らからの執拗(しつよう)な攻撃を嫌ってのことだろう。

 そんな中で、杉田はこれまでにLGBT支援を批判する論考を発表してきた数少ない論客であり、既にネット上では「差別主義者」などと、攻撃を受けていた。ところが今回は、主要メディアも、彼女に対して激しい批判を加えているのだから、言論の自由を守るという観点からは看過できない動きである。

 「新潮45」の論考で、最も問題とされているのは「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と、「生産性」という言葉を使って、支援に疑問を投げ掛けた部分だ。

 朝日新聞は7月25日付社説で「歴史的に少数者を排除してきた優生思想の差別的考えとどこが違うのか」と、また毎日新聞も24日付「ネットウオッチ」欄で、「性的少数者蔑視に貫かれている」と、それぞれ「優生思想」「性的少数者蔑視」と、“レッテル貼り”を行って、杉田を酷評している。

 国民民主党の共同代表、玉木雄一郎は記者会見で「ナチスの優生思想にも通じるような問題で許すことはできない」と怒りを露(あら)わにしているが、ここで「ナチス」を持ち出すのは、もはや批判を超えて“人格攻撃”である。

 主要マスコミや国会議員までが、感情的とも思える批判を杉田に加えるのは「生産性」という文言を曲解していることに加えて、この文言が男女のカップルと同性カップルの本質的な違い、つまり有性生殖という生物学的な事実を提起するものであって、それにはまともな反論ができないからだろう。

 その問題に入る前に指摘しなければならないのは、杉田が批判されているようなLGBT差別主義者ではないことだ。それは論考の次の部分を見れば分かる。「もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません」

 この論文を素直に読めば、杉田は性的指向から分類されるレズビアン(L)、ゲイ(G)、バイセクシャル(B)、そして性自認の問題としてのトランスジェンダー(T)であるということと、彼ら彼女らがつくるカップルの問題を分けて考えていることが分かる。そして「生産性がない」としたのは個人としての生産性ではなく、カップルとしてのそれである。つまり、どんなに愛し合っていようが、同性カップルには自然生殖は不可能であるという生物学的な宿命を明示したにすぎない。

 前出の毎日新聞の記事によれば、自民党衆院議員の武井俊輔がツイッターで「生産性のない人間などいない」と、杉田の論考を批判したというが、まったく的外れである。それでも、武井のコメントを掲載したところに同紙の意図が表れている。

 また、「子供を作らない」同性カップルに税金を投入していいのか、という杉田の問題提起は、婚姻の成立を男女に限定している理由に照らし合わせれば、差別主義者の暴論どころか、むしろ常識的なものであることがはっきりする。家族法の専門家の見解を見てみよう。

 「民法は、生物学的な婚姻障害をいくつか設けている。そこには前提として、婚姻は『子どもを産み・育てる』ためのものだという観念があると思われる」「婚姻には自然にもとづく側面もある。ここでいう『自然』は、生物としてのあり方ということであり、ヒトには男女の異なる性があり、その交配により種の再生産がなされるということを指している」(大村敦志『家族法』第3版)

 これはまさに、結婚した男女には子供が生まれる可能性があるからこそ、政府・行政が税金を投入して、その関係を保護していることを示している。逆に言えば、どんなに愛し合ったとしても自然生殖の可能性がない同性カップルの関係は「婚姻」(結婚)ではないのである。

 つまり、杉田の論考には言葉足らずの部分があるかもしれないが、その考えの基本は、現行の家族法が同性カップルを生物学的な婚姻障害の一つとしていることと同じであって、決して「ナチスの優生思想」「性的少数者蔑視」と言われる類いの暴論ではない。

 こう書くと、結婚の本質は、子供が生まれるかどうかではなく、お互いの愛情である、でなければ子供が生まれない男女は結婚できないことになるとの反論が出る。しかし、もし愛情だけが結婚の本質だとすれば「同性婚」だけでなく、「兄弟婚」「親子婚」などの「近親婚」も認めるべきだということになってしまう。子供の出産を除外して婚姻制度を考えることの危険性はここにある。だから、前出の大村は次のように述べている。

 「婚姻は子をもうけるためになされるという理解には異論もあろう。今日では子のないカップルは少なくないし、子のできないカップルも存在する。子のないことは離婚原因とはならないし、そもそも不妊であることが明らかな男女であってもその婚姻は妨げられない。しかし、婚姻がそこから子どもが生まれることを念頭に置いたものであることは否定しがたい事実だろう」

 自然生殖のできない同性カップルへの税金投入に疑問を呈した杉田の論考のどこが問題というのか。

(敬称略)

 編集委員 森田 清策