「男女」「同性」で二重基準 国立市「多様な性」条例

愛情告白された側の人権無視

 世界で注目を集めるセクシュアルハラスメント(性的嫌がらせ=セクハラ)は、被害を訴える側が「不快」と思えば、それはセクハラになるというのが基本的な考え方だ。この定義からすると、同性愛者が同性に愛を告白した時、告白された側が「不快」と感じた場合もセクハラになるはずだ。ところが、そうはならないばかりか、逆に告白されたことを第三者に相談すると、「人権侵害」になるという。こんな妙な内容を含んだ条例が今年4月、東京都国立市で施行された。

 「国立市女性と男性及び多様な性の平等参画を推進する条例」が正式名称。筑波大学准教授の星野豊は、この条例に多くの疑問を呈する論考を発表した。「国立市『多様な性』条例に意義あり」(「新潮45」7月号)と題した論考だ。その論考で、星野は「その前提となる考え方からして、差別や偏見のない社会を本当に目指しているのか疑問」とするばかりか、「具体的に規定された権利や禁止行為についても、この規定の仕方では、むしろ逆の結果を合法化させかねない危険すら含まれている」と、危機感をあらわにしている。

 中でも、星野が深刻な問題としたのは、禁止事項を定めた第8条2項。「何人も、性的指向、性自認等の公表に関して、いかなる場合も……本心の意に反して公にしてはならない」という規定だ。

 この内容は、2015年4月に起きた、いわゆる「一橋大学アウティング事件」の影響を受けたものとされる。アウティングとは、ゲイやレズなどの性的指向や性同一性障害などの秘密を本人の了解を得ずに暴露する行動のこと。

 事件は、同性愛者だった同大学の大学院生が、友人の男子学生に愛情を告白したことがきっかけで発生した。告白された男子学生が、告白した院生も加わっていた友人間のインターネット交流サイト(SNS)に「お前がゲイであることを隠しておくのはムリだ。ごめん」と投稿したことから、それにショックを受けた院生が投身自殺を図って転落死した。

 このため、条例は基本理念で「性的指向、性自認等に関する公表の自由が個人の権利として保障される」とする一方、前述したように「本人の意に反して公にしてはならない」と禁じている。これに対して、星野は次のような正鵠(せいこく)を射た指摘を行っている。

 「誰が誰を好きになるかが個人の自由であるならば、他人からの告白に対してどのような感情を持つかについても、告白された側の自由として同様に尊重されるべき」とした。その上で、「告白をした側が同性愛者であるとの理由だけで、告白を受けた側が同性愛者に対する配慮の義務を負い、告白を受けた事実を同性愛者の意思に従って秘密にしなければならないとすることは、対等な者同士の関係としては説明ができない」と断じている。

 LGBT(性的少数者)に関する問題については、個人の感情や価値観と密接に絡んでいるにもかかわらず、そこには触れられずに、人権の視点だけからのアプローチが試みられているのが日本の現状だ。それだけでも修正が必要だが、それに加えて、性的指向や性自認をめぐっては当事者の人権だけが強調されているのだから、「『相手方の人権』についても同程度の配慮が必要になる」という、星野の主張は至極当然である。

 さらには、星野も指摘したように、同性愛の場合、告白する側の感情ばかりが大切にされ、告白された側の感情については無視されている。つまり、セクハラの逆のパターンになっているのだ。

 このことは男女間の愛情告白と比較すると分かりやすいだろう。男性からプロポーズを受けた女性が親や友人に相談することはよくあることだが、その時、プロポーズした男性の許可を得ずに第三者に相談するということはまったく問題にならない。なのに、なぜ同性愛の場合になると、相手の意思に従わなければならないのか、という疑問は、多くの人が持つものだろう。

 この疑問に対しては、男女間における愛情告白を他人に打ち明けても、差別を受けることのない「異性愛」の公言になるだけだから、そこへの配慮は必要ないとの反論が予想される。しかし、国立市の条例は「性別による固定的な役割分担」「性別にかかわりなく」「性別による差別的取扱」などという文言を用いて、“性別の壁”を乗り越えよと呼び掛けておきながら、実際は男女間と同性間の関係を分け、後者を特別扱いするという、ダブルスタンダード(二重基準)に陥っている。

 この矛盾は「女性と男性及び多様な性」と、男女と多様な性を分ける条例の名称に端的に表れている。これに対しても、星野は「『多様な性』を既存の「男女」と異なるものと位置づけているとしか考えられず、これはLGBTに対して従来から存在する差別感覚あるいは偏見そのものである」と、鋭い指摘を行っている。

 そして、「性的指向や性自認は、優れて個人の内心の問題であり、国家や自治体が法律や条例で個人の感情に基づく行動を規制しようとすること自体、根本的に間違っている」と結論付けている。まったく同感である。

 論考は「個人の感情」だけに言及しているが、個人や家庭の価値観の問題であることも忘れてはならない。条例は「全ての人が、性別、性的指向、性自認等にかかわりなく個人として尊重され」としているが、既存の男女共同参画条例でも見られるように、この文脈は「男らしく」「女らしく」の否定に利用される危険性の高い文言だ。

 本当に男らしい、あるいは女らしい人間は人を差別しない。だから、「らしさ」を大切にする家庭教育を行いたいと、保護者が考えても、道理にかなったことではないか。しかし、条例は家庭を含めたあらゆる分野の活動で、男女平等参画の推進に努めることを「市民の責務」としているから、家庭教育への介入が懸念される。

 国立市の条例は、男女以外の多様な性の人権を強調するとともに、個人の感情と価値観を国家や自治体が規制するという恐ろしい時代到来の予兆ではないのか。“多様な性全体主義”とでも呼びたくなるような危うさを感じる。

(敬称略)

 編集委員 森田 清策