LGBTと教育 危険な親の価値観軽視
保護者の教育権に言及なし
作家の石井光太が、いわゆる「LGBT」(性的少数者)をテーマに、「潮」の9、10月号の2回にわたってルポしている(「本来の自分で生きる――LGBTが集う場所」)。
取材の中心は、愛媛県で当事者支援や啓発活動を行っている「レインボープライド愛媛」。社会の中で、苦しむ人たちへの支援という点では、児童虐待と性的少数者は共通するが、虐待と違って、LGBTには個人や家庭の価値観の問題が絡むので、複雑な問題だ。価値観と性行動の関わりについて、石井が深く掘り下げなかったことが、論考を表面的なものに終わらせている。
例えば、10月号に、レインボープライド愛媛の事務所に同県内の中学生30人ほどが訪れ、LGBTについて当事者らから話を聞いたというくだりがあった。引率した女性教師は、文部科学省から人権教育研究校に指定された前任の中学校で、性的少数者の人権課題を中心に学習を行っていた。新しく赴任した学校でも同様の取り組みを行いたいとして、生徒を連れてきたという。多分、前任の学校というのは、「多様な性」を授業で教える学校として、昨年1月にNHKで取り上げた中学校だろう。
前任の中学校にいた時、その女性教師はLGBTをテーマに、小学校に出向いて出張授業を行ったりしたという。しかし、児童に、同性愛や両性愛などをどう説明したのか、児童はそれを理解できたのか。普通なら疑問に思う点に対する石井の突っ込みがなかったのはどうしたことか。
さらに問題なのは、女性教師は小中学生を対象にした教育活動を行っているのに、保護者の教育権について言及がなかったことだ。筆者(森田)がこの女性教師を取材するなら、授業内容を保護者にどのように説明し、了解を取ったのかを必ず確かめる。石井には教育権という、保護者の権利が眼中になかったのだろうか。
性行動についての考え方、価値観は人とそれぞれ違う。同性同士の性行為を「罪」とする宗教を信じる保護者がいるかもしれない。親はその信念に従って教育する権利を有するから、小中学生の段階ではLGBTについては教えてほしくないと考える保護者がいても不思議ではない。教師が人権教育に熱心だからといって、こうした保護者の意思を無視して、LGBTに関する教育を行うのは大きな問題である。
また、LGBT当事者の立場だけに重点を置いて、性の問題を考えることは、新たな問題を生む危険性がある。例えば、石井は「たしかに何の会話においても、私たちは知らないうちに『男女』の前提を設(もう)けて話しているのかもしれない。自覚はなかったが、それがセクシャル・マイノリティーの人々にとっては『壁』になっているのだ」と語る。
では、その壁を壊すため、男女の概念を取り払ったら、逆に生きづらく感じる人もいるはずだ。男女別のトイレなどはその典型だろう。こうした問題をどう考えるのか。
さらに、「社会はLGBTの人たちを受け入れなければならない」と、石井は述べている。しかし、「受け入れる」とは、何を意味するのか、論考だけ見ると、曖昧である。
繰り返しになるが、性行動に対する考え方は、人それぞれ違う。LGBTであるかどうかは別にして、同性同士が性行為を行うことについては、それを嫌う人もいるし、自らの性倫理として受け入れられないとする人も存在しよう。
もし、そのような価値観、信念まで含めて、LGBTを受け入れるべきだというなら、価値観の強制以外の何ものでもなく、民主主義社会では許されないことではないか。「性」は、その人間の持つ価値観と切り離せないから難しいのだ。
編集委員 森田 清策