最期の迎え方 「死」の意識遠のく

不幸招く延命至上主義

 超高齢社会は、最期まであまり時間のない人が多くなるだけでなく、現実に亡くなる人が多い社会である。昨年1年間に亡くなった人は130万人を超えた。これは戦後最低だった1966年(約67万人)の倍近い。

 この数字の表す超高齢社会の現実は、私たちに死生観の変化を促すはずである。例えば、それぞれの私生活においては、亡くなった親類縁者や知人の葬儀に参列する機会が増える。そうなれば、自らの人生を顧みて、どのように生きて、どのように最期を迎えるのかについて、自然に思いを馳せるようになるだろうから、日本人の死生観の深まりを期待していたが、どうも人間はそれほど潔くはないようだ。

 月刊「文藝春秋」11月号は「健康寿命を伸ばす」と銘打った大型企画を組んだ。論壇では最近、超高齢社会を反映して類似する企画が多いが、同誌の企画に、深く考えさせられた論考があった。聖路加国際病院顧問で細谷医院(山形県河北町)の細谷亮太院長の「不幸な最期を迎えないために」だ。この論考の中で、細谷氏は「日本は長寿社会を迎え、老いても『死を意識しない』時代になった」と指摘している。

 筆者は中学生の時、祖父の臨終に接して、「自分にもいつかやってくる死とは何か」と考えるようになった。人の死とは誰にでもそれほどインパクトのあるものだと思っていたが、現実はその逆をたどっている。長寿社会になって、寿命に対する意識が薄れ「死に対する心構え」がおろそかになってしまっているのだ。

 細谷氏も指摘していることだが、その要因の一つは、病院で死ぬ人が多くなったこと。つまり、亡くなる人は増えても「日常生活で死を感じる機会」は少ないからだろう。確かに、筆者の祖父は自宅で臨終を迎えた。筆者が多感な年齢だったことも、その体験の衝撃を大きくしたのであって、その体験を今の時代に一般化すべきでないのかもしれない。

 一方で、いつまでも生きられるという錯覚を与えて、人間の過剰な欲望をあおっているものがある。メディアである。細谷氏は次のように指摘する。「テレビや新聞で元気な百歳が取り上げられているのを見ると、誰もが元気に百歳を迎えられる幻想」を抱く半面、「もう十分生きた」と感じることが難しくなっているのかもしれない、と。

 「健康寿命を伸ばす」の特集には、東北大学加齢医学研究所・瀧靖之教授の「脳科学が証明したボケない秘訣」、彩の国東大宮メディカルセンター眼科・平松類科長の「ほうれん草が老眼に効く」などの論考が並んでいる。ちなみに、目にいい食品と言えば、これもメディアの影響でブルーベリーを連想する人が多いだろうが、実際はブルーベリーは「毒にはならないが薬にもならない」。本当に目にいい食べ物は、色素成分ルテインを含むほうれん草なのだそうだ。

 専門家による、こうした日常生活で役立つ情報を提示する論考も読者を引き付けるだろうが、細谷氏の論考が際立っているのは死生観、延命治療・安楽死の是非など、多岐にわたるテーマを、自分の問題として読者に考えさせるからだ。同氏はこんなことも言っている。

 「最近の若い医師はどんどん『科学者』になっている」。つまり、「文学や哲学、芸術といった文系のことにまったく関心がなく、人間を診る『医者』というより、器官の異常を治す『科学者』になっている」と。筆者は、「診察の場でも、若い医師はコンピューターばかり見ていて、患者を診ていない」というベテラン医師の嘆きを聞いたことがあるが、これは細谷氏の問題意識と重なっている。

 ノーベル医学生理学賞に選ばれた東京工業大学の大隅良典栄誉教授は京都産業大学の永田和宏教授との対談「『役に立たない』ことが大事である」(「中央公論」11月号)で、次のように語っている。

 「役に立たない研究をやる人がいるのが社会的にとても大事だということが認識されないと、日本の科学は悲惨なものになる」

 この日本の科学研究の在り方への苦言は医療の分野にも当てはまるのではないか。患者をより深く診ることのできる医師を育てるには、中学・高校生ぐらいで人文・社会科学系の教養に対する関心を高めるような学校教育にする必要があるだろう。

 最後に、細谷氏は「人は生きたようにしか死ねない」として、60代後半になったら、自分はどのような最期を迎えたいか、その意思を家族に伝えることを勧めている。それ以上の年齢になると、突然の病気や認知症の懸念があるからだが、そのためには、若いうちから自らの人生や死について考える習慣が必要になってくる。

 それに加えて、延命治療をどうするかということは、人の最期の在り方や介護する家族に関わるプライベートな問題にとどまらない。国民医療費の肥大化という深刻な事態とも関わっていることも指摘したい。

 編集委員 森田 清策