故永六輔氏のテレビ批判「日本人を恥知らずにした」

ラジオからの功罪見直し提案

 リオ五輪が終わったら、テレビをほとんどつけなくなったという人が多いのではないか。それだけ日本のテレビは見るに値しない番組を垂れ流している。唯一、ワクワクしながら見るのはスポーツ中継ぐらいか。その一方で、つまらないだけでなく、見ていて恥ずかしくなる番組が増えている。

 今年7月に亡くなった放送作家で、作詞家の永六輔は草創期のテレビづくりに関わった一人である。しかし、だいぶ前から活躍の場はラジオ中心で、特定の番組以外のテレビ出演を避けていた。

 月刊「文藝春秋」9月号がその永が9年前に書いた論考「テレビが日本人を恥知らずにした」を追悼再録した。同誌は「今に通じる問題意識がある」と、再録の理由を述べているが、今に通じるどころではない。間違いなく、テレビは過去9年間で日本人をさらに恥知らずにしている。

 永のテレビ批判の論考で、注目したい点の一つは、「ニュース・ショーが裁判所のように」なっていることだ。この手の番組にはコメンテーターと称する人間がその分野の専門家でもないのに偉そうなことを言って恥じない。こうした出演者と、自分を「正義」の側に置いて福島の人たちを差別する反原発運動家には、共通する精神性があるのではないか。

 二つ目は、グルメ番組、旅番組が乱立し、食べるシーンを頻繁に映し出していること。永は「食べるというのは、カメラの前で排泄しているのと同じくらい恥ずかしいこと」と言い切っている。

 さらに、「日本はどうしてこんなにも露出狂的な国になってしまったのでしょう。本来、隠すべきものが露骨に表に出すぎています」と嘆くのだった。最近は「できちゃった婚」が増え、しかもそれを堂々と“披露”するが、「できちゃった事実は、もっと隠し通さないといけません」という永の美意識を理解するテレビ関係者はどれほどいるのだろうか。

 永がこの論考を書いた9年前よりも日本人の露出狂がさらに強まったと感じるのは、テレビで自らの性をさらけ出す人間が増えたからだ。「セクシャリティー」という外来語を用いて「自分の性的指向はああだ、こうだ」とあからさまにする人間をどう感じていたのか、永に聞きたかった。

 最後に、永は「テレビ以前のラジオの時代を知っている人はラジオに戻ってください。ラジオからテレビの功罪を見直さないと。そう僕は思っています」と呼び掛けた。

 高校時代によくラジオを聞いた筆者は最近、再びラジオを聞くようになった。だからなのか、政治的なスタンスには違和感を持つことがあった永の論考をうなずきながら読んだ。(敬称略)

 編集委員 森田 清策