テレビ報道の偏向是正、視聴者の声がカギ
新聞との相互批判できず
月刊誌の最新号に、テレビ報道に関する二つの論考が載っている。一つは右派の「WiLL」2016年2月号の「テレビは新聞社のプロパガンダ機関か」で、寄稿者は最近、保守系論壇での執筆活動が目立つ米カリフォルニア州弁護士のケント・ギルバート。
もう一つは左派の「世界」同年1月号の「放送法の『番組編集準則』と表現の自由」――BPO検証委『意見書』をめぐって」で、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所教授の鈴木秀美が書いている。前者は、特に政治テーマについての偏向報道を続けるテレビ局に放送法第4条の遵守(じゅんしゅ)を求めている。一方、後者は同じ第4条を「法規範」と解釈する政府が放送番組に「介入」していると批判する立場だ。
二つは違った視点から、わが国のテレビ報道の在り方を論じているが、鈴木は、放送事業者の表現の自由や自主規制の尊重という、左派論壇で頻繁に展開される論旨にとどまっており、特徴的な視点はない。
これに対して、ギルバートは、日本ではテレビ局と新聞社が繋(つな)がっているという構造的な欠陥を指摘。その上で、中立公正なテレビ報道を実現するためには、一般視聴者が声を上げることが必要だと訴える。この指摘からは、テレビだけでなく、メディア全般と受け手との関わりにおける日本社会の未成熟さも浮かび上がってくる。
テレビと新聞が繋がっている例として、ギルバートはTBSの報道番組「NEWS23」に毎日新聞特別編集委員の岸井成格(しげただ)や、テレビ朝日の「報道ステーション」に、朝日新聞論説副主幹の立野純二などが出演していることを挙げた。彼らの政治思想をそのままテレビで流せば、放送法第4条にある「政治的に公平であること」に反すると主張。そればかりか、「新聞社の政治思想を喧伝するプロパガンダ機関の役割をテレビは果たしているように私には見える」とまで述べている。
11月中旬、産経新聞と読売新聞に「私達は、違法な報道を見逃しません。」と大書した意見広告が掲載された。広告を出したのは「放送法遵守を求める視聴者の会」。今年9月16日放送の「NEWS23」で、岸井が「メディアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と発言したことに対して、放送法4条に規定された番組編集準則に「明らかに抵触します」と訴えた。
視聴者の会の呼びかけ人にはすぎやまこういち(代表=作曲家)、渡部昇一(上智大学名誉教授)、渡辺利夫(拓殖大学総長・当時)らの名前が並んでいるが、ギルバートもその1人。番組編集準則は①公安及び善良な風俗を害しないこと②政治的に公平であること③報道は事実をまげないですること④意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること―を明示した。
意見広告は、岸井が個人の立場で発言したのではなく、番組のアンカーとして「局を代表」する立場だから「重大な違反行為だ」と問題視している。また、安保法制論議で、テレビの報道番組が反対に偏った発言を放送したことをデータを挙げて指摘しているので説得力を持つ。
意見広告の掲載後、視聴者の会は都内で記者会見を行った。その席で、ギルバートは「日本の放送局が新聞社を持っているということは大問題だと思います。これは分離すべきだと思います」と発言したが、この発言部分を報じた新聞を確認していないという。筆者も新聞検索サービスで検索したが、放送局と新聞の分離を主張した部分を掲載した新聞はなかった。
前述のようなテレビと新聞の関係についての認識は、ギルバートが米国人であることと関わっている。米国では、連邦通信委員会(FCC)が定めた規制で、新聞社がテレビ局を、またはテレビ局が新聞社を運営することはできなかった。現在はその規制は緩められているが、伝統的にテレビ局と新聞社が繋がることを良しとしていないのだ。その理由は「報道のダイバーシティ(多様性)を担保するため」という。
テレビ局と新聞社が繋がりのない報道機関であるなら、相互批判によって言論機関内でチェック機能が働くことも期待できる。しかし、わが国のように、テレビ局の「バックに新聞社」がついていると、相互批判ができないどころか、論考のタイトルのような状況が生まれる恐れがあることは否定できない。
そして、ギルバートは日本のテレビの質について「お世辞にもレベルが高いとは言えません」「テレビは『こうあってほしい』という願望ばかり報じている」と嘆く。同じ印象を持つ視聴者は多いのではないか。
テレビと新聞の切り離しができない上に、放送法に違反したとしても罰則規定がない状況では、「一般の視聴者が目を光らせ、おかしいと思ったら、声を上げていかなければならない」と、ギルバートは訴えるが、それには視聴者のメディア・リテラシーが問われる。
特派員として米国のワシントンDCに赴任した当時、筆者はテレビ番組に対する視聴者の監視が厳しいことに驚かされた。日本の視聴者は、テレビが報じる内容に迎合する傾向が強いが、米国では、放送内容を監視する民間団体がいくつもあって、特定の番組が10分間に何回暴力シーンを流していたなどという調査を行って発表していた。
そんな団体の多くはキリスト教を背景としている。その意味するところは、家庭にしっかりした価値観があるからこそ、テレビが茶の間に流す世俗的な価値観に対する警戒心が生まれるということだろう。逆に言えば、日本の視聴者の多くがテレビの流す情報に迎合的になるのは、守るべき価値観が家庭には希薄だからとも言える。
ギルバートの論考が放送事業者に中立公正な報道を求めているのに対して、鈴木は番組編集準則は「倫理規範」であるとの立場から、事業者側の番組編集の「自由」に力点を置いている。題材にしたのは、NHKの「クローズアップ現代」が「出家詐欺」特集でやらせ疑惑が持ち上がった問題。NHKに対して、総務大臣が「厳重注意」の行政指導を行い、自民党も事情聴取を行ったことについて、放送倫理・番組向上機構(BPO)がNHKに「重大な放送倫理違反があった」とする意見書を発表する一方で、政府と自民党の動きを「政権党による圧力」と批判した。
鈴木は放送番組の適正さの維持は「政府の介入によってではなく、放送事業者の自己規律」とBPOを通じた「自主的な検証に委ねるべきである」とした。しかし、総務大臣が指摘したように、法的な拘束力がなく、相手方の自主的な協力を前提とする行政指導を行ったからと言って、放送事業者の自立性を侵害したことにはならないはずだ。
また、鈴木は「同じ報道機関であるのに、放送には新聞との関係では憲法上許されない法的規制が課されている」と断じたが、表現の自由を論ずる場合、テレビと新聞との違いも考慮に入れる必要がある。
同じ報道機関とはいえ、新聞と違って、テレビは公共の電波を使い、放送免許が必要で、総務省がその監督機関となっている。一方、新聞は「極論を言えば、プロパガンダ機関であってもかまいません」(ギルバート)。このため、テレビは新聞と同じレベルでの表現の自由を論じることはできないのである。
法務大臣が行った行政指導が萎縮効果をもたらすというのであれば、それは報道に携わる側の、表現の自由を守ろうとする姿勢の問題である。もし、政府の対応に憲法上あるいは法的な問題があるとすれば、報道機関は堂々と争うべきだ。
鈴木は「報道の最も重要な役割は権力監視である」と断じている。それも一つの重要な役割であることに違いないが、同じように、視聴者は公平な報道、事実をまげない報道も求めている。こうした報道に接していれば、テレビ報道への視聴者の信頼は揺るがない。しかし現在、テレビが視聴者の信頼を勝ち得ているかどうかは、昨今のテレビ離れを見れば明らかだろう。
そうなると、やはりテレビ報道をだれが監視し、報道の適正化を促すのか、という問題にたどり着く。あくまで自律的に適切な報道を達成すべきだとする鈴木は報道に携わる人間は「放送法が番組の適正確保を自主規制に委ねていることの意味を自覚し、強い責任と高い倫理観をもってその職責を果たしていかなければならない」と結論づけている。しかし、「強い責任と高い倫理観」を持つプロフェッショナルがどれほどいるのか、疑わしいのが現状だ。相互批判が期待できる新聞とテレビの分離がなされていない中では、放送事業の自律的な規制には懐疑的にならざるをえない。(敬称略)
編集委員 森田 清策