戦後地元紙の左翼支配 壮絶だった戦時の新聞人

《 沖 縄 時 評 》

沖縄タイムス、琉球新報 歴史を捏造、先輩を批判

戦後地元紙の左翼支配 壮絶だった戦時の新聞人

那覇市若狭の「戦没新聞人の碑」=撮影・豊田剛

 作家の百田尚樹氏から偏向報道を批判されて以降、沖縄タイムスと琉球新報は百田批判キャンペーンを張るなど自らの「正当性」の主張に躍起だ。外国特派員協会での両紙編集局長共同記者会見では(東京・千代田区、7月2日)、沖縄の新聞史をひもといて「正当性」を強調した。

 だが、発言には少なからず事実に反する内容があった。それにも関わらず、未だ誰からも正されずにいる。これでは朝日の「従軍慰安婦」報道と同様、捏造(ねつぞう)が「事実」として根を下ろしかねない。改めて沖縄の新聞史をたどっておこう。

 武富和彦・沖縄タイムス編集局長と潮平芳和・琉球新報編集局長は会見で口をそろえて、「(沖縄には)戦後10以上の新聞があり、淘汰されて残ったのが2紙。県民に支持されてきたからだ」「違うトーンの新聞が出てくるのを排除している訳ではない」と述べた。

 また、潮平氏は戦時中の新聞の犯した「罪」に言及し、「(1940年の一県一紙統合による)沖縄新報は国家権力の戦争遂行に協力し、県民の戦意を高揚させる役割を果たし、おびただしい数の住民が犠牲(ぎせい)になった。戦後、沖縄の新聞は戦争に加担した新聞人の反省から出発した」とも述べた。

 まるで戦犯であるかのような批判を鬼籍の先輩新聞人はどう思うだろうか。那覇市若狭の旭ヶ丘公園にある「戦没新聞人の碑」には「砲煙弾雨の下で新聞人たちは二か月にわたって新聞の発行を続けた。これは新聞史上例のないことである。その任務果たして戦死した14人の霊ここに眠る」と記されている。

 沖縄戦で記者たちは師範学校の生徒らが掘った首里城本殿裏の豪(留魂豪と呼ばれた)に平版輪転機を持ち込み、砲弾をかいくぐって取材し、新聞を発行し続けた。戦火が激しくなり、45年5月25日を最後に廃刊した(真久田功『戦後沖縄の新聞人』沖縄タイムス社刊)。まさに歴史に残る壮絶な新聞作りで、誇りこそすれ非難されるものでは決してあるまい。

◆米軍政府下で発足

 琉球新報はそうした新聞人とは縁もゆかりもない新聞だ。同紙は2013年9月に「創刊120年」を大々的に宣伝したが、これこそ歴史捏造だ。確かに「琉球新報」は1893(明治26)年に創刊されているが、前記の一県一紙統合で姿を消しており、現在の琉球新報とはまったくの別物だ。

 ところが、同紙の富田詢一社長は「戦火のまだ収まらない45年7月、収容所のあった石川でガリ版刷りの『ウルマ新報』を発行して再出発しました」(2013年9月15日付)と、臆面もなく「再出発」と述べている。実際は再出発ではなく、米軍が沖縄県民を使って住民宣撫(せんぶ)工作の機関紙として石川市(現うるま市)で発刊したものだ。

 その背景について琉球政府文教局の『琉球史料』は、1945年の米国海軍軍政府の設営後、「マリン将校ウエイン・サトルス大尉が主任となり、二世の小谷軍曹等によって、住民に対し戦況や国際情報を提供する目的で週刊紙の編集が計画されたが思うように進まなかったので、民間人にニュース係を任命し、新聞社の工場関係の旧職員を集め、週刊紙の刊行が計画された」と記している。

 初代社長に抜擢(ばってき)されたのは社会主義者の島清(2代目は瀬長亀次郎=後の日本共産党副委員長)で、戦前の新聞人ではなく、印刷工を除いて素人ばかりが集められ、米軍機関紙として無料配布された。

 富田社長は「生き残った元社員が集まり、サンフランシスコ講和条約締結の51年9月、『うるま新報』から『琉球新報』に改題、題字の復活を果たしました」(前掲)と述べているが、商標登録もない米軍統治下で“無断”で改題したにすぎない。68年2月1日付からは発行の通し番号を戦前の琉球新報の分を併せて記載した。念の入った経歴詐称と言うほかあるまい。

 「生き残った元社員たち」が48年7月に創刊したのが沖縄タイムスだ。と言っても米軍の後押しによる。当時、米軍は沖縄の「離日政策」を徹底するため新たな宣撫新聞を必要とし、これに新聞人が応じた。

 「創刊のことば」には「吾々はアメリカの暖かい援助のもとに生活してゐる。この現実を正しく認識することはとりも直さずアメリカの軍政に對する誠実なる協力であり、また、これが沖縄を復興する道である」)(同7月1日付)とある。

 その“傑作”と言うべきものが、集団自決を巡って「軍命」の根拠として大江健三郎氏らに引用され続けてきた『鉄の暴風』(50年)だ。執筆したのはベテラン新聞人ではなく、米民政府に勤務していた伊佐良博という人物だ(後に同社を退社、ペンネーム「太田良博」で作家になった)。

 さて、戦後沖縄にあった10以上の新聞とはいかなるものか。『沖縄の新聞がつぶれる日』(沖縄フリージャーナリスト会議編=94年)によると、沖縄タイムスの発刊当時、米軍が次々に発刊許可を出し、雨後の筍(たけのこ)のように新聞が登場した。

 沖縄毎日新聞(48年7月~50年1月)、沖縄ヘラルド(49年12月~沖縄新聞、沖縄朝日新聞、沖縄日日新聞と改題~61年5月)、琉球日報(50年2月~琉球新聞、沖縄日報と改題~54年12月)などだ。

 各紙とも米軍から資金援助を受けたり、米軍印刷所で印刷していたりしたが、米軍との軋轢(あつれき)や経営の行き詰まりで、いずれも廃刊。沖縄毎日新聞の場合、米軍との約束を守って設備投資をためらい日刊化に後れを取ったのが致命傷となった。実態は「県民の支持」以前の経営破綻と言ってよい。

◆「沖縄時報」を弾圧

 武富編集局長は「違うトーンの新聞が出てくるのを両紙が排除している訳ではない」と述べているが、2紙に潰された新聞もある。「第3の日刊紙」と言われた沖縄時報(67年8月~69年9月)だ。

 沖縄復帰を控えた60年代後半、保革の一大対決となった行政主席や那覇市長、立法院の選挙で2紙が革新系を全面支援したため、業を煮やした財界人らが資金を提供し創刊された。

 これに対して革新陣営は同紙の記者を「立ち入り禁止」にして取材拒否。行政府(現、県庁)の記者クラブからも除名され、紙面づくりに使われていた時事通信の記者までボイコットされる始末だった。

 2紙と全国紙(左派系)記者に村八分にされ、取材の困難さと選挙での保守陣営の敗北もあって立ち行かなくなり、廃刊した(山城義男・元沖縄時報労組委員長=『沖縄の新聞がつぶれる日』)。沖縄タイムス、琉球新報の2紙は百田発言を言論弾圧と叫ぶが、自らは弾圧して恥じない。

 1970年代、沖縄タイムスはカラー印刷化で琉球新報に後れを取って部数を減らすと、83年に当時の比嘉敬社長が思い切った人事を断行した。「かつて共産党より左といわれた革マルの闘士だった新川明氏にバトンタッチした。朝日新聞に右へ習えしている傾向が見られるタイムスだからできた思い切った人事」(渡久地政夫・元琉球新報記者=前掲書)だった。

 こうして60年安保、70年安保を通じて本土から浸透した左翼イデオロギーによって「反日・反軍」に「反米」が加えられた。米軍が沖縄初の高等教育機関として創設した琉球大学もそれに侵されていく。

◆天下り先から記者

 琉球大学でジャーナリズムを専攻した比嘉辰博・元琉球新報社長(社会部長、政経部長、編集局長など歴任、08年退任)は、大学時代に太田昌秀氏(革新系元知事=当時、琉大講師)に師事した(比嘉辰博『沖縄の新聞再生』新星出版)。

 こうした新聞人は定年後も「言論人」として影響をもち続け、琉球大学や沖縄国際大学の教授や講師として“天下り”し、指導した学生を2社に送り込んでいった。さらに本土からも左翼学生が流れ込んできた。

 その典型的人物が琉球新報記者の米倉外昭氏だろう。同氏は東北大学の学生時代に共産党系の「東北大学新聞」編集長として学生運動に血道を上げた後、琉球新報に入社。同社労組委員長や新聞労連副委員長を歴任し、職業的活動家となった。

 2紙は先陣を争うかのように左傾化を強め、沖縄特有の「言論空間」を形成してきた。それが冒頭の両編集局長の虚偽発言の背景だ。このことを踏まえて沖縄報道に臨んでもらいたい。

(増 記代司)