特別対談 直筆御製に記された昭和天皇の大御心(上)
直筆御製に記された昭和天皇の大御心(下)
昭和天皇の御製(和歌)が記された原稿と、作歌のためのメモなど直筆資料が発見されたことを、世界日報は今年1月3日付から4回にわたり詳報してきた。同資料を保管していた元宮内庁侍従職で内舎人(うどねり)を務めた牧野名助氏が、このほど学習院大学に寄贈したことを機に、ジャーナリストの櫻井よしこ氏と作家の竹田恒泰氏に、直筆御製に記された昭和天皇の大御心、令和時代における意義などを語ってもらった。
皇室資料開示のルールを 櫻井
書陵部で収集管理すべき 竹田
昭和天皇の直筆御製(和歌)と直筆メモについては、世界日報が新年から報道し、月刊誌「Hanada」にも論文を寄稿してきましたが、つい先日、保管者の元宮内庁侍従職で内舎人として昭和天皇に長年仕えた牧野名助さんが資料を学習院大学に寄贈しました。貴重な資料なので、牧野さんも保管先が決まってほっとしていると言っておられます。今回は両先生に資料の写真やコピーを見てお話しいただきたいと思います。
櫻井 御製に入る前に、牧野さんが学習院大学に寄贈なさったことの是非について考えてみたいと思います。天皇にお仕えする方の日記であるとか、いろんなものがこのところ発表されていますが、その発表の仕方や寄贈先が学習院でよいのかというのが第一点です。天皇および皇室に関する資料の保存や公開の方法について、ルールがないために各人、各メディアがバラバラの対応をしています。
このような状況では皇室の方々も安心して周りにお仕えする人々にお話しになれないのではないかと思います。以前、竹田さんのお話では、宮内庁に書陵部という部署があって、そこに保管するのが適切ではないかとのことでしたが。
竹田 皇室に関係する歴史資料は、しっかりと書陵部が収集し管理すべきものだと思っています。大変古い時代から歴代の天皇や皇族にまつわる資料を残していて、歴史資料の保存に関しては、日本随一の技術を持っています。しかもそれらは、国家に帰属することになります。昨年、高須クリニックの高須院長が米国のオークションで競り落とした『昭和天皇独白録』の原本を書陵部に寄贈しましたが、そうすることで国家に永久保存されます。資料の開示請求をすれば、誰でも閲覧することもできますので、やはり書陵部にしっかり入るべきだと思います。
本来なら、もっと早い時期に書陵部に入れていただいて、草稿の中の未発表の御製も『昭和天皇実録』の編纂(へんさん)中に書陵部にあれば、実録に掲載された可能性もある。ですから今、櫻井先生がご指摘になったように、昭和天皇直筆のものでありますから、どう管理され保管されるのか、しっかりルール作りをしなければいけないと思います。
櫻井 御製は明確に天皇のご意思と思いを伝えるものですから、よいとして、側近の方々の日記やメモなどは一体どうするのがよいか、一定の考え方を確立しておく必要があります。例えば富田朝彦・元宮内庁長官がつけたとされる「富田メモ」は本当にひどい事例だと思います。ひどい形で政治利用されたのではないでしょうか。直近の事例では田島道治・初代宮内庁長官がびっしりと書いたメモ「拝謁記」が出てきて、それがメディアに開示されました。
竹田 メディアが恣意(しい)的に発表してしまいました。全体像は見えず、ブラックボックスに入ってしまっているようなものです。
櫻井 侍従をはじめお傍(そば)にお仕えする人が、メモを残したり日記に書いたものをどうするのかのルールがなく、ご家族がそれをどうしようかと悩まなければならないこと自体がおかしいことです。それがメディアに渡れば、メディアは報道するのが基本ですから報道します。報道されれば私たちも知りたいので、当たり前ですが一生懸命読みますし、論じます。しかしそれでよいのかというのが私の疑問です。
詠まれた最晩年の250余首
直筆御製については、世界日報、おそらく朝日新聞も平成26年ごろには既に資料を入手していました。ただ牧野さんがまだ発表は控えてほしいというので、報道しなかったのですが、朝日新聞が今年、元旦スクープとして載せたわけです。朝日は、そのタイミングについて、「昭和天皇逝去から30年となる節目を前に」と書いていました。
「実録」も百年後公開が理想
竹田 公開するのに適切な時期があると思います。御製というのは昭和天皇の本心が詠まれるものです。和歌を詠むこと自体が祈ることと同じですので、そこに思ってもないことが詠み込まれることはない。靖国に関する御製もこの中にありましたが、中には政治の機微に触れるような内容も詠み込まれることもある。どの時期に公表するのか、しないのか。そもそも御製は公表しないことを前提に詠まれていますし。

さくらい・よしこ 1945年ベトナム生まれ。ハワイ大学歴史学部卒業後、「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙東京支局勤務、日本テレビ・ニュースキャスター等を経て、現在フリージャーナリストとして活躍。『エイズ犯罪 血友病患者の悲劇』(中央公論社)で大宅壮一ノンフィクション賞受賞、『日本の危機』(新潮社)などの一連の言論活動で菊池寛賞受賞。
櫻井 そうなんですか。新年の歌会始とか折々に発表される御製を拝見して、公表前提かと思っていました。
竹田 歌会始の御製は公表を前提としてお詠みになっていますが、総じて言えば公表されないことが前提なんです。祈るために詠む御製もありますので、非公開なわけです。崩御の後でも、すぐ公開するのでは憚(はばか)られるものもあるはずです。明治天皇の御製の中にも公表されていないものがたくさんあります。
天皇の肉声と言ってもいいもので、しかも直筆の御製です。もちろん、文学的な内容でいつ公表しても問題ないものもありますが、岸信介元首相が亡くなった時にお詠みになった御製もあって、直近の首相をどう評価するかというのも、政治の機微に触れるものです。
櫻井 大きな課題ですね。日本は立憲君主国で、君主は君臨すれども統治せずです。政治向きのことは発言なさらないのが鉄則です。私たちも天皇陛下や皇族の方々を政治利用してはならないのが基本ルールです。マスコミの性(さが)としていったん表に出れば、これをできるだけ知ろうとするのは、職業的な特性ですからしょうがない。でも、みんなで立憲君主国の君主の在り方をお守りしないと、政治利用されることは多々あろうかと思います。「知る権利」を言う人もいますが、皇室に関しては私たちが知る権利ばかり言うのは良くない。要するにもっと大事にしないといけないということです。
昭和天皇は生涯で1万首のお歌を作られたといわれますが、例えば崩御の翌年に上梓(じょうし)された御製集『おほうなばら』には870首しか載っていません。実質的な編纂(へんさん)者である徳川義寛侍従長が選んだと思われますが、今回、発見された200首近い未発表御製を見て、中にはなぜこれが入らなかったのかなど、選歌の判断や基準に疑問も残ります。

たけだ・つねやす 1975年東京生まれ。生家は旧皇族・竹田家で明治天皇の玄孫に当たる。慶応義塾大学法学部卒業。憲法学・史学の研究に従事。『語られなかった皇族たちの真実』(小学館)で山本七平賞を受賞。著書に『天皇は本当にただの象徴に堕ちたのか 変わらぬ皇統の重み』(PHP新書)など多数。ニコニコ動画「竹田恒泰チャンネル」で新聞記事解説を配信中。
竹田 先ほど書陵部に入れるべきだと言いましたが、書陵部が正しく管理し、正しく判断できているかというと疑問があります。『昭和天皇実録』が編纂され、公開が平成26年からと昭和天皇崩御から30年も経(た)っていないうちに実録が完成してすぐ公開されてしまった。
普通、天皇の実録ができてもいつ公開するかは別の問題。明治天皇にしても大正天皇にしても、だいぶ経ってから。崩御後約100年で公表された『孝明天皇紀』などは、凄(すさ)まじいことがたくさん書かれている。しかも大正天皇実録は未(いま)だに公表できない部分があったりする。一方、わずか26年で刊行された『昭和天皇実録』は、公表して差し支えないことしか書いてないとも言える。100年後に公表するものであれば、もっと踏み込んだものになったでしょう。
櫻井 これは手法の問題だけではなく、皇室という存在をどう私たちの中に位置付けるかという本質論に関わってくると思うのです。ただ単に美しい建前だけで捉えるのであるならば、『昭和天皇実録』のように発表して差し支えないものだけ集めて、比較的早く公表してしまう。私はまだ『孝明天皇紀』は読んでいませんが、竹田さんがおっしゃったように凄まじいことが書かれていて、こういったこともあったんだということを歴史の真実として、十分な時間が過ぎた時に知ることが大事だと思うのです。
日本国を統合する皇室には、並大抵でない事情があるはずです。そこも含めて、実体としての皇室を残すためには、100年後規模の公開ということにしないと、恐ろしくて何も発言できないでしょうね。
竹田 アメリカも公文書の公開の期日が決まっていますが、やはりそれなりのものは50年とか、ものによっては70年、100年というものもあって然(しか)るべきです。
皇室関係資料の保管、さらに天皇の御製の本質、天皇紀編纂などとても重要な指摘と問題提起を頂きました。ではここで新発見の御製に入っていきたいと思います。昭和60年ごろから崩御されるまで最晩年のお歌250余首が記され、未発表の御製も含まれています。
竹田 晩年の御製の草稿ということなので、ご病気で臥せっていらっしゃる中で人生を思い返し、家族のことや、昔の大正時代のお父様との思い出を詠んでいらっしゃる。昭和天皇は生物学者でしたので、ご自分の体のことはよく分かっていらっしゃったはずです。もしかしたらこれが最期のことになるのではないかとのお気持ちでお詠みになったのかなと思います。
特に昭和63年8月15日の戦没者追悼式のご出席が、最期の行幸になったわけですが、その時は那須でご静養中で、側近が「東京に戻るのは無理です」と申し上げたが「これだけは行かなくてはいけない」と、陸上自衛隊のヘリコプターを飛ばして迎賓館までおいでになり、1泊なさってから武道館にお出ましになりました。その時の映像を今拝見しても本当におやつれになったご様子で、歩みも数センチずつしか進まない。そのような時にお詠みになったお歌<あゝ悲し戰の後思ひつゝしきにいのりをさゝげたるなり>が直筆で残っている。
おそらく昭和天皇はこれが最期になるかもしれないという万感の思いをもって式に臨み、3首お詠みになった。当時の映像を思い出しながらこの御製を読みますと、戦争に対する昭和天皇の思いがずっしりと伝わってくる気がいたします。
「やすらけき」に込めたお心
櫻井 戦争やその犠牲を思い、本当に悲しまれていらっしゃるというのが分かりますね。ほかの2首のうち<やすらけき世を祈りしもまだならぬ(は)くちおしきかなきざしみれども>は、いろんな人がいろんな解釈をしています。これは靖国神社参拝のことに思いを致しておられると言われますが、どう思いますか。
竹田 靖国ももちろん含まれていると思いますが、終戦の後に日本が復興するためには、何百年もかかるという趣旨のお言葉も終戦直後にあったようです。日本が経済的に完全復興したのは明らかですが、まだまだ靖国を含め、時間がかかるというご感想をお持ちなのだろうと思います。
櫻井 「やすらけき世を」というのが、第2首にも出てきます。
<いつのまによそぢあまりもたちにけるこのしきまでにやすらけき世みず>
「やすらけき」に込められた昭和天皇のお心というのは、どんなものだったのだろうかと思います。戦後40年経ち、経済的には立ち直り、食べるものも十分で、どんどん成長した日本は世界的にも認められていた時期です。でも、昭和天皇は必ずしもそのような状況に「やすらけき」お心を抱いていらっしゃらない。昭和天皇にとっての「やすらけき」お心というのは、抽象的ですが日本らしい日本なのではないかと私は思います。
竹田 安倍総理が「日本を取り戻す」と第1次安倍内閣で示しましたが、終戦後まだ取り戻していないものが多くあります。最近の話で言えば、韓国に対しても、韓国から言われればいつも日本は折れていたわけですが、初めて折れない日本というところに来ている。敗戦コンプレックスが根深く残っている日本ですが、令和において少しずつ回復している過程なのかなと思う。しかし昭和63年の段階ではまだまだ多くの課題があったのでしょう。昭和天皇は100年かかるのではないかとおっしゃっていたくらいですし、「耐えがたきを耐え忍び難きを忍び」という途中にいらっしゃったのではないかと思います。
櫻井 そう考えて「あゝかなし」というお言葉を読むと、本当に悲しいなと思いますね。
竹田 あと私が注目したのは、災害の時にいろいろと御製を詠んでいらっしゃいます。昭和61年の伊豆大島の大噴火後の視察ということで、大島の歌が6首載っています。私たちには東日本大震災と重なる情景がありまして、例えば<大島の人々の幸祈りつゝわざあいのちをみておどろけり>。
いろいろ聞いてはいたけれども実際にその場に行ってみると、悲惨なもので、思いを新たになさるわけですが、実は災害が起きた時、被災地御訪問というのを定例化なさった最初の天皇が昭和天皇なのです。今、紹介された和歌にあるように「わざあいのちをみておどろけり」と、実際に行ってみて分かることがあります。その状況を分かった上で、また祈りに向かう。まさに象徴天皇の姿を追求すればこそ、災害が起きたらあまり早いうちだと負担になるから、適切な時期を見計らって被災地を御訪問になるのです。
これは昭和天皇が国民に向ける思いの強さからなさることで、これを上皇陛下がお引き継ぎになり、膝をついてお話しになるというかたちに進化しました。テレビ局はそれと対比して、昭和天皇は国民に寄り添ってなかったかのような印象を持たせる番組作りをしていますが、御製を読むと国民に向けるお気持ちの強さを改めて感じます。
国家・国民へ万感の思い込め
岸追悼3首に現実的国家観 櫻井
御製を詠むこと自体が祈り 竹田
櫻井 これにはすごくお気持ちが出ています。その後に<災にみを顧みず諸人をたすけしいさをよろこびにけり>。本当によくやってくれてありがとう、というお気持ちを救援活動をしている人々に向けて表しています。固有名詞はありませんがこれは自衛隊、消防隊、警察などに向けての労(ねぎら)いのお気持ちですね。加えて被災救援地で互いに扶(たす)け合う住民の皆さんへの労いでもありますね。
竹田 東日本大震災にもそういうことがあって、上皇陛下がお言葉を発せられましたね。
櫻井 そうですね。この後に<此の島のたち直りをば人々にすみやかなれとのぞみたるなり>。本当に早く回復して元気になってくださいねというお気持ち。国民を思う昭和天皇の素直なお気持ちが伝わってきます。
国民を思うお気持ちという点では、例えばサミット警備に当たった人々を労う<此の度に世のやすらきをもる人のいたつきおもふわさにはけみて>という未発表御製もあります。昭和天皇は人々の「いたつき」つまり生活を具体的に思いやっておられたことが分かります。
櫻井 仁徳天皇の逸話を思い出しませんか。
竹田 靖国の話になりますが、靖国の歌で、昭和61年8月に<今年の此の日にも又(靖の月を円に)國のやしろのことに(て)うれひはふかし>とあります。
(靖の月を円に)国御親拝できぬ「うれひ」
櫻井 あの有名な歌ですね。「うれひはふかし」をどう解釈したらいいのか、それぞれの立場の方が解釈していますが、昭和天皇の独白録を読むと、戦犯とされた人たちに対する非常に温かいお気持ちを持っていらっしゃるのは明白です。日本国のために命を捧(ささ)げた人たちの魂が眠る靖国に悪い思いを抱いているはずがありません。
ずっとご親拝してくださったのは事実ですし、ご親拝がなくなっても毎年勅使が派遣されているのは、昭和天皇のお心を反映しています。ニュースでは取り上げられませんが、皇族の方々も靖国参拝を続けていらっしゃいます。もし昭和天皇がリベラルの人たちが言うように、靖国神社から遠ざかろうとしておられたのなら、皇族の方もその意志を尊重して、参拝なさるはずがありません。
竹田 このような御製をお詠みになるということもないでしょうね。ご親拝できなくなってしまったことが「うれひはふかし」と理解するよりほかはない。靖国神社に参拝できなくなってしまったことをおっしゃっているのだろうと思います。
櫻井 その意味でいうと、わが国の政治がきちんとした手当てをしないといけない。
竹田 こういう御製を踏まえた上で、「富田メモ」も見なければならない。富田長官メモだけだと昭和天皇は靖国を毛嫌いしているのではないかとみる人もいたわけです。富田長官のメモは断片的で、全編が公開されていません。一部分だけ見せられても前後のことはよく分からない。合祀(ごうし)そのものにはもしかしたら疑問をお持ちだったかもしれないが、かといって東条大将を嫌っていたかというとそうではない。結果的に直接参拝できなくなったことを憂いているお気持ちなのではないかと思います。どうも左派系の人は靖国を毛嫌いしていると持っていきたいようですけれども、御製はうそをつくということが絶対にない。本心が語られているとみるべきです。
岸信介元首相の亡くなった時に詠まれた3首も未公開のお歌ですが、昭和天皇の岸元首相への深いお気持ちがうかがわれます。それについてどうでしょう。
竹田 昭和天皇の歴代の各総理への思いなど、絶対に表に出ない話です。でも、岸元首相が亡くなった時の御製には本心が詠み込まれているわけですから、一歩間違うと政治的に利用されるものでもあります。失われてはいけないものではあるものの、誰が管理しどう公表するか、高度な歴史観を持って判断しないといけない。政治的な機微に触れる肉声そのものなので、扱いは難しい。
櫻井 今回、NHKが公開した田島長官の「拝謁記」も、NHKが宮内庁クラブに配布した資料を基に、各社が書いているわけです。その中で産経新聞が、軍備・防衛力について、近隣諸国と比べて少ないにもかかわらず、どうしてこれが問題となるのか問うご発言があったことを報道しました。それと合わせて岸元首相の死去に関する大御歌3首を拝見しますと、健全な君主として国の安全や国民の命を守るための国家の在り方について、現実的なお考えを持っておられたことが分かります。私はこれをうれしいと思い、改めて昭和天皇のご見識に敬意を表したのですが、あんまり言うと政治利用だと言われる可能性もあるので、注意をしなければいけません。その上で私の心の中で留意したことは、昭和天皇のお考えは、国家に対して責任を持つお立場の人として、本当に現実的で健全です。
竹田 象徴天皇だから政治に関心を持たないのではなく、誰よりも関心を持って憂いていらっしゃるし、祈りの力によって少しでも日本を良い方向に導こうとなさるのがよく分かりますね。
令和の時代に課題果すべき
櫻井 岸元首相の死去に際して最初に詠われたのは「國の為務めたる君」で始まっています。岸元首相は安保改定を成し遂げ反対に遭って退陣していったわけですが、「あなたは国のために務めた」ときちんと評価していらっしゃる。第2首、第3首に<その上にきみのいひたることばこそおもひふかけれのこしてきえしは><その上に深き思ひをこめていひしことばのこしてきみきえにけり>とあり、欄外に「言葉は聲なき聲のことなり」と書いてあります。岸首相が安保改定のさなか、デモ隊に囲まれていた時に、「国民の声はデモ隊の声だけではない。神宮球場は野球を楽しむ人たちで満ちている。銀座にはそぞろ歩きを楽しむ人たちがいる。そうした多くの国民の声なき声に耳を傾けたい」という岸の言葉を「ことば」で表しておられます。3首の御製には、健全な国のかたちというものはまだ達成されていないというお気持ちが昭和天皇にあったことを示していますね。
竹田 亡くなった方に対して、追悼の御製をお詠みになるということは、故人に対して最高のことです。位の高いお坊さんの読経、位の高い神主の祝詞も比較になりません。天皇には人を神にする力がある。しかも五七五七七というのは神に直結するリズム。「古事記」から五七五七七が入りました。文学史上最初の和歌は須佐之男命の和歌で古事記に収録されています。
須佐之男命が、櫛名田比売を妻に迎えた時に詠った「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに 八重垣作るその八重垣を」ですね。
竹田 最近の言葉でも伝わるでしょうが、五七五七七のやまとことばで詠み上げるのが神様に直接につながります。なぜ天皇が歌を詠むのかにつながる話ですが、文学作品や芸術作品を創っているのではなくて、和歌を作ること自体が祈ること。天皇の祈りは非公開だから和歌も非公開であり、そこに本心が隠れています。誰かが聞いたではなく、天皇陛下本人の心のうちを神様に祈っている。中には祈りとは違う御製もあるのですが、なぜ天皇が歌を詠むのかと言えば、祈ることそのものだからという答えになるわけです。
岸元首相が亡くなった時、3首をお詠みになりました。これは追悼の祈り。天皇は人を神にする力があります。ですから故人にとっては最高のことです。
戦後各地を天皇陛下が行幸なさり、戦没者を追悼する御製もたくさん詠んでいらっしゃいます。稚内に行けば、電話交換手を務めていた9人の乙女が自決した話をお聞きになって、昭和天皇と香淳皇后が涙を流してお詠みになった和歌が御製碑として立っています。
戦争で倒れた御霊にとっては、天皇の祈りは天に上げる力を持ちます。そういう意味において、文学・芸術作品とは全然意味合いの違うものなのですが、そのことはあまり知られていません。神様にはうそをつくことは絶対にない。御製には歴代天皇の本心が詠み込まれていると考えられます。
櫻井 昭和天皇のお言葉はそれほど能弁ではありませんでしたが、一連の藤橋さんの論文に始まり、竹田さんがおっしゃった内容を心に刻めば、昭和天皇は本当のお気持ちを和歌に表現されていたと強く確信するようになりました。そう実感しながら昭和天皇のお歌を読んでいく過程で、昭和41年の歌会始で<日日のこのわがゆく道を正さむとかくれたる人の声をもとむる>があるのに気が付きました。その年のお題が「声」だったのですが、このお歌は終戦で変えられてしまった国の形を元に戻す、そのことを目指した岸元首相の思いを受け止めて詠まれたのではないか。「かくれたる人の声をもとむる」はまさに、岸元首相の「声なき声」に重なるのではないか。岸は安保改定の向こうに憲法改正を目指していましたが、その後の池田勇人も佐藤栄作も、経済ばかりに走っていきました。
そのことを岸は残念に思っていたと思いますが、昭和天皇も国のかたちを日本本来のかたちにするには、もう一歩、憲法改正などに踏み込まなければいけないと思っておられた。私は歌会始のお歌からそのように感じ取りました。そういう解説をしているものは当然なかったのですけれども。そういうふうに読み取るのは的外れでしょうか。
竹田 いえ、私もそう感じました。復興したもの、取り戻したもの、取り戻せていないものがあると思います。終戦からもう75年ですがまだ75年ともいえるわけです。経済的な復興はありましたが、失われた精神的なものはたくさんあります。教育もまだ取り戻せていないし、敗戦国や加害者であると言われることも乗り越えられていません。いま改めて、昭和天皇が道半ばと思ってらっしゃるような御製を拝すと、私たちが令和の時代にやらなければならない課題もあるなと改めて思います。