窒息させられた戦後宗教教育 新しい歴史教科書をつくる会会長 杉原誠四郎氏に聞く(下)
再考「政教分離原則」
憲法における政教分離の原則の適応の仕方が課題になる場面の一つが教育である。教育基本法は宗教教育における「寛容の態度」を掲げているが、公教育の教育現場では宗教教育に後ろ向きで、歴史的な宗教文化の蓄積を生かせないでいる。こうなった歴史的経緯を、教育史にも詳しい杉原誠四郎氏に伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
憲法学者が誤った解釈/新教育基本法で突破口も
内省促す宗教教育あって/道徳教育は完全なものに
平成18年に改正された現行教育基本法の第15条第1項には「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない」とある。昭和22年に制定された旧同法でも第9条第1項で「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」としていた。
新旧ほぼ同一の規定であるが、旧教育基本法では宗教教育の条項でありながら、宗教教育の重要さを直接、謳(うた)ったものではなく、宗教教育の振興にとっては役に立たないものとして扱われてきたので、改正に当たり、宗教教育の意義を強調するため「宗教に関する一般的な教養」を尊重すべきものとして追加されたのである。
――旧教育基本法はなぜそんな規定になったのか。
昭和21年9月時点の原案では「宗教的情操の涵養は、教育上これを尊重しなければならないこと」とあり、宗教教育の意義を真正面から謳っていた。
戦前は、近代国家として政教分離の原則を取り入れ、憲法では「信教ノ自由」を保障しながら、神道は宗教にあらずとして社会的に特別な地位を与え、宗教教育においては、明治32年の文部省訓令で宗派宗教立の学校でも、宗派宗教に基づく宗教教育を認めない政策を取った。これにはキリスト教への警戒があったからと考えられるが、これによって宗教は学校教育から排除されたのである。
国語の教材で、感動的な僧侶の挿話などが断片的に取り上げられたりしていたので、宗教教材は皆無ではなかったが、江戸時代以来、庶民の生活に重大な影響を与え続けてきた仏教が系統的には教えられなくなった。その結果、高等教育を受けた知識人に仏教的素養がなくなり、日本の宗教文化が危機に瀕(ひん)した。さらに、内心の反省のある宗教の教育を排除して道徳教育は完全なものとなるのか、という反省が教育学で起こった。
そこで昭和に入ると、明治32年の文部省訓令に対して、これは学校で宗派宗教の教育を行ってはならないというものであり、宗教的情操の涵養を排除するものではないとした「宗教的情操ノ涵養ニ関スル留意事項」なる文部次官通牒が昭和10年に出された。宗教的な考え方や感情を大切にし、心の教育をしていこうということである。そのさい宗派宗教の信仰も宗教的情操の一つではあるが、学校では宗派宗教教育はしないことにしようとなった。このような日本の教育学的発展のなかで、昭和21年9月、教育基本法の原案に前記のような宗教的情操の涵養に関する規定が設けられたのである。
――当時は憲法改正の時期で、新憲法では厳しい政教分離の規定があった。
そこで、日本の法制局が「憲法違反になるのではないか」と異を唱えた。確かに宗派宗教の信仰によっても宗教的情操は涵養されるわけであるから、完全に的外れだとはいえない。宗教教育の大切さを謳う規定として、戦前の日本の教育学の発展として、この教育基本の規定は素晴らしいものであったが、そのことが理解できない法制局の係官はそのように指導した。憲法違反と言われれば防ぎようもなく、この規定は撤回されたのである。
宗教的情操の教育は宗派宗教でなくてもできるし、また政教分離下での宗教教育が宗派宗教に一切接触してはならないわけではないが、法制局の係官が政教分離を誤って認識していたのである。その根は宗教に関する無知にあり、少年時代に宗教教育を受けなかった弊害が出たと言えよう。
だが、教育における宗教教育の重要性が否定されたわけではない。とすれば、「宗教的情操」の言葉を使わないで、宗教教育の大切さを示すにはどうすればよいかとなる。旧教育基本法第9条第1項の規定は、このような関係者の苦闘のなかで生まれたのだ。
当時、日本の教育を民主化するためアメリカで実施されている「学習指導要領」が導入された。当時、脚光を浴びていたヴァージニア州の「学習指導要領」には宗教に関する教育についての規定がふんだんにあり、その第7学年つまり中学1年の規定が、旧教育基本法第9条第1項とそっくりなのである。
こうして「宗教的情操」なる言葉は使わなかったが、公教育における宗教教育の重要性は何とか謳うことにはなった。しかし、その重要性を直接に謳ったものではないし、「宗教的情操の涵養」が排除されたことからも分かるように、宗教教育の意義が分からない憲法学者による政教分離解釈によって、戦後の学校教育における宗教教育は窒息させられたのである。
新しい教育基本法では、これまでの条文に付加して「宗教に関する一般的な教養」も教育上尊重しなければならなくなり、宗教教育振興の突破口ができた。
――政教分離における「寛容の態度」の重要性は。
宗教のなかには、神道のように自己の宗教を絶対視しないものも多いが、宗派宗教によっては自己の宗教における認識とその行動を絶対視し、他の宗派宗教を邪教扱いにする宗派宗教もありうる。内心の自由を原点に置く信仰の自由において、そのような信仰があっても仕方がない。それをそのまま認めるのが、信仰の自由の保障である。
しかし、ある宗派宗教が他の宗派宗教を邪教だとして殲滅(せんめつ)することを標榜(ひょうぼう)したら、社会は修羅場となる。宗教史から見ても、そこまでの信仰の自由の保障はないことは明らかだ。
信仰の自由を享受している者は、その宗派宗教の外部に向かって寛容でなければならない。すなわち信仰の自由の享受者に向けて世俗の世界から「寛容の態度」の要求が出てくるのは必然であり、教育基本法の示した「寛容の態度」の尊重は憲法の政教分離に取り入れられなければならず、また、そのことを前提としていなければならない。その意味で、旧教育基本法第9条第1項の規定、及び新教育基本法の第15条第1項の規定は、憲法の政教分離の規定にとって極めて重要であるということになる。
――新旧教育基本法では、「宗教の社会生活における地位」も教育上尊重しなければならないと規定している。
これは、宗教に社会性のあることを認め、それを尊重しなければならないことを意味している。とすると、この教育基本法の規定は祭祀(さいし)の尊重も含めていると言える。だとしたら、旧教育基本法第9条第1項の規定は、政教分離を定める憲法の規定に直接あってよい規定だということになる。