命の大切さをどう教えるか 一燈園・燈影学園学園長 相大二郎氏に聞く
言葉では教えられない「命」や「心」
2004年の小6女児同級生殺害事件を機に「命の教育」に力を入れてきた長崎県で7月、女子高生による同級生殺害事件が起き、社会に大きな衝撃を与えた。子供たちに命の大切さをどう教えたらいいのか、「争いのない生活」を目指した思想家・西田天香によって設立された一燈園・燈影学園の相大二郎(あいだいじろう)学園長に話を伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
「祈り」と「汗」と「学習」が3本柱/口で教えるのは知識や技術
朝は全員で瞑想の時間/修学旅行ではトイレ掃除
――子供たちに命の大切さを教えるには、どうすればいいと思いますか。
一燈園を創始した西田天香さんは「一燈園の教育は正しい教育をしているのではない」と言っています。一燈園は「正しさ」に軸足を置いた教育をしているのではなく、「大自然に適(かな)う」という視点に軸足を置いた教育を基本としています。「正しい」と言った瞬間に他の教育は間違いだとなり、そこから争いが起こる。争いをなくそうという教育が足元から争いの原因をつくってはいけない。
「大自然に軸足を置く」という観点から見ると、私は「命」や「心」といったものは口や言葉で教えることはできないと思っています。なぜならば命や心には答えがないからです。口や言葉で教えることができるのは答えがあるもの、つまり知識と技術です。
「命は大切なもの」「心は大事だ」と教えても差し支えないでしょうが、あまり説得力はないと思います。なぜなら、それらは日々の生活の中から子供たちに「伝わる」ものであり、生活の中から子供たちが「気づく」ものだからです。
子供たちに「命は大切なものですか」「いじめはいいことですか」「お年寄りに親切にするのはいいことですか」というペーパーテストをすると、六歳の子が100%正しい回答をします。そういう意味では子供たちは知識として知っているのです。ですから今更、口で教える必要はない。ところが、それが子供たちの心に伝わっていないために様々な問題が起こるのでしょうね。
しかし一方、視点を変えると答えがないということは無数の答えがあるということでもあります。百人いると百通りの答えがあるはずです。つまり、一人ひとりが「命」に対する自分自身の気づき、「心」を実感する瞬間が日々の生活の中であるはずです。そのような機会を日常生活の中で子供たちに与えていくことが大切な課題であり、大人にはその責任性と情熱、創意工夫、率先垂範が要求されます。これらの要求に応えられないとき、大人は「命が大事だ」「心が大事だ」といういちばん安易な正しいその言葉を使います。この言葉は正しいには違いありませんが、何の効果も説得力もないと思います。
燈影学園では小・中・高校生と教職員百人余りが、毎日の昼食を板の間に正座して黙って頂きます。食事は友達とおしゃべりしながら食べた方が楽しいでしょうが、一日に一回、黙って食べるのは、米や野菜、魚、肉などと会話をするためです。感性の鋭い子は、イワシにかぶりついた瞬間、自分たちは命を食べているのだと気づきます。
子供たちは教室では金子みすゞの素晴らしい「大漁」という詩を習います。
「朝焼け小焼けだ大漁だ/大羽鰮(いわし)の大漁だ。/浜は祭りのようだけど/海のなかでは何萬の/鰮のとむらいするだろう」
みすゞさんは誰も気づかないイワシの命に心を添えています。しかし、それは金子みすゞの気づきであって、素晴らしい詩ではありますが子供たち自身の気づきではありません。大人はそのような気づきに出会う機会を子供たちに与える必要があると思います。勿論、気づく子や何も気づかない子、まちまちですが……。
――朝は全員で瞑想をしています。
毎朝、登校時の八時から礼堂という静かなお堂で15~20分間、瞑想を行います。瞑想の前に「きょうは自分がどこから来たのか考えよう」など答えのないヒントを与え、拍子木を鳴らして静寂なひとときが流れます。瞑想を通してそれぞれの気づきがあります。小学6年の女子は次のような詩を作りました。
「どうして私はいるんだろう?/どうして私は女なんだろう?/どうして私は生まれてきたのだろう?/すべての答えは神さまが知っているんだ、きっと私は選ばれた者/何百もの命の種の中から選ばれた者/すべてを決めたのは神さまだからきっと/でも神さまはチャンスをくれただけなんだ/私に生きるチャンスをくれただけなんだ/きっとそうなんだ/神さまっていう人はすべての人にチャンスと希望を贈れる人/それがきっと神さまという人なんだ」
4回も使われている「きっと」という言葉に、自分はそう思うという気持ちが表れています。
子供たちは感謝された時にとても喜びます。感謝されるには、家のお手伝いでもいいし、電車の座席を譲ってもよい、障害者の車いすを押してあげたり、何か捧げるものが必要です。ところが最近はその汗をかく行為を、親や教師、社会も子供にさせなくなっています。子供の自由や主体性、選択、希望などを重んじるようになったからです。そこには大人の責任性がありません。
――燈影学園では修学旅行で行願(トイレ掃除)を行っています。
高校2年の正月に、知らない町へ行き、見知らぬ家を訪ね、行願をさせて頂きます。快晴ばかりでなく吹雪の年もみぞれの年もあります。黒い作務衣(さむえ)を着て、白い日本手拭いを被り、素足にぞうり履きで、バケツと雑巾を持って一軒一軒訪ね歩きます。最初はほとんど断られるのですが、感心することに高校生たちはいくら断られても次の家を訪ねて、一生懸命お願いします。
水の代わりにお湯を入れてもらった男子は、「バケツの中にかじかんだ両手を突っ込んでいると、お湯の温かさがご主人の心の温かさのような気がして、とてもうれしかった」と感想を語っています。
――授業の中に、山の下草刈りや農作業などの作務を取り入れています。
大自然に軸足を置いた教育の一つで、子供たちは抵抗なくむしろ楽しみにして価値を感じています。子供は「心」と「体」と「脳」の三つを授けられて生まれてきます。それらは親が授けたものではなくいわば大自然から授かったものです。自然に適うためにはこれらの三つの授かり物を鍛える必要があります。「心」を鍛えるのが「祈り(瞑想)」であり、「体」を鍛えるのが社会に役立つ「汗」、「脳」を鍛えるのが「学習」です。ですから、「祈り」と「汗」と「学習」が本校教育方針の三本柱になります。
諸行無常や生老病死などの現象も自然で、自分が男であること女であること、この家庭、この国、この時代に生まれたことすべて人為ではなく自然です。
その大自然の不思議さに気づくには、日常生活での積み重ねが大切だと思います。時には、静かな空間で自分を見つめる時間が気づきの場になるのでしょう。