子供たちに死を教える教育を 教育評論家 棚橋嘉勝氏に聞く(上)
死は人生教育の場
同級生を殺害した佐世保市の女子高生は「人を殺してみたかった」と言ったというのは、10年前、類似の事件を起こした小6女児と似ている。長崎県が力を入れていた「命の教育」は、なぜ少女の心に届かなかったのか。宗教教育にも造詣の深い教育評論家の棚橋嘉勝氏に、衝撃的な事件の背景にある問題について伺った。
(聞き手=フリージャーナリスト・多田則明)
生の教育と両輪に/死を遠ざけた戦後社会
身近な人の死との遭遇/死生観つくる原体験に
――2004年に小6女児同級生殺害事件が起きた佐世保市で7月26日、女子高生が同級生を殺害する事件が起きました。10年前の事件を機に「命の教育」に力を入れてきた長崎県教育委員会は大きなショックを受けています。
命の教育は、生の教育と死の教育を車の両輪として行われるべきものです。
ところが、文部科学省が「心のノート」を全面改訂した道徳教育用教材「私たちの道徳」を見ても、生命や大自然の素晴らしさ、自己決定の大切さをうたう反面、死については「生と死について考えよう」という短いフレーズだけで終わっています。生と死を教えて初めて命の教育なのに、片方だけだと同じところをぐるぐる回りすることになります。
死を遠ざけてきたのは教育界だけではなく、戦後社会の一貫した風潮です。これに拍車をかけたのが核家族化、少子高齢化で、子供たちは身近な人の死を体験する機会が減っています。また、自宅死を望む人が80%以上なのに、実際にそうなるのは10%で、その結果、身近な人の死を看取る体験が少なくなっているのです。事件の背景には、こうした日本社会の風潮があるように思います。
――子供たちが死を実感的に理解できなくなっているのですか。
ある教育者グループが都内の二つの小学校高学年の生徒を対象に行ったアンケート調査によると、「死んだ人が生き返ることがあると思うか」の問いに対して、「あると思う」が34%、「あると思わない」が同じく34%、「分からない」が32%という結果でした。確か、10年前に長崎県の教育委員会が緊急に行った調査でも、同じような結果だったと思います。
子供たちに「命を大切に」と語りかける前に、まず「死とは何か」「命とは何か」というところから伝えなければ言葉が届かないのでしょう。
――子供たちは葬式に出る機会も減っています。
人は誰でも身近な人、愛する人の死に遭遇します。大切な人とも、いつかは別れる時が来るのだということを、子供にも体験させておく必要があります。命の大切さを実感的に考えるきっかけになるからです。
私は親族などの葬式には、子供同伴で参列することを勧めています。親御さんの中には、勉強に差し支えるから、ショックを受けると困るからと、参列させない人もいますが、子供の人格形成の上では、むしろマイナスです。
子供も小学生高学年になるころまでには、死について考えるようになります。どうして自分がこの世に生まれたのか、死んだらどうなるのか、いくら考えても結論の出ない疑問です。いろいろな宗教や哲学ではそれなりの答えを用意していますが、大切なのは自分で考えるということです。
死の問題は教えられて分かるものではなく、実存的に自分で獲得するものだからです。その格好の機会が大切な人の死に遭遇することなので、葬式に参列し、遺体に触れ、お棺に花を入れるなど体験することが、自分なりの死生観をつくる原体験となるのです。
――葬式は生と死を考えるいい機会なのですね。
家内が住職をしている私の寺では、小さな本堂ですが、よく葬式をします。あるおじいさんの葬式のとき、小学校6年の男の子がどう接していいか分からず、隅の方にいるので、家内が「どうしておじいちゃんのところに行かないの」と聞くと、「怖い、怖い」と答えたそうです。
家内が「僕はおじいちゃんがかわいがってくれたのでしょう。おじいちゃんのそばにいてあげないとね。おじいちゃんは動かなくなったけど、仏さまになったのよ。化けて出るわけじゃないのだから、怖いことなんかないのよ。ありがとうって言おうね」と言うと、お棺のそばに行って祖父の顔をじっと見ていました。
出棺のときになると、おじいさんの口にチョコレートを入れたりしているのです。それを見て家内は「ああよかったね、おじいちゃん喜んでいるよ。これからもおじいちゃんが僕を見守っているから、困ったとき、おじいちゃん力貸してと言うと、きっと力を貸してくれるわよ」と言ってやりました。
あの時、家内が声をかけなかったら、あの子は祖父といいお別れができなかったかもしれません。その子はもう高校生で、真っすぐに育っています。
母親が亡くなるとき、どこにいたのか分からなかった20歳の娘さんに家内が電話して、お母さんは2日間お寺にいるから会いに来るように伝え、「お母さんはあなたのことを待っていたのだから、会わないままだと後悔することになるわよ」と言うと、その子はやって来ました。そして、枕経から通夜の最後までずっとそばにいました。
家内は火葬の後お骨を拾い、のど仏を娘さんの手のひらに載せて、「これがお母さんの仏さまよ。よく見て、私頑張るからって言いなさい」と言いました。
その母親の思いをよく知っていたので、そのことを娘さんに伝えたかったのです。葬儀の場は貴重な宗教教育、人生教育の場でもあるのです。最近は法話をしない僧侶もいますが、大切な機会を失うようで残念です。
――近くに死について率直に話せるような宗教者がいるといい。
家内は檀家の子供たちとは小さいころから面識があり、折に触れて相談に乗ったりしてきています。親に相談できないことも、住職だと話せるということもあります。また、死んだらどうなるのかなど、親としても確信の持てない話は、住職から話してもらうに越したことはありません。それは、子供の不安な気持ちを一時的に収めるだけのことであっても、それでいいのです。いずれ、真剣に悩み、考え、自分で結論を出さなければならない、人生の大問題なのですから。
お寺の住職が人生についてすべてを知っているわけではありません。お釈迦さまも死後のことについては「無記」と言って、何にも答えられなかったように、人から教えられて納得できるものではないからです。むしろ、そんな疑問を通して深く考えることに意味があるとも言えます。
親にとっても、そんな話ができる宗教者を近くに持っていることは、心の安心につながるでしょう。日本の仏教は葬式仏教と批判されたりしますが、人の死の儀式を丁重に行うことで、残された遺族の悲しみを癒やし、生きる力を回復させる役割もあります。その意味では葬式仏教でいいのです。
むしろ今の葬儀が、お寺ではなく、葬祭業者主導になっていることが問題で、仏教界は葬式仏教の誇りを取り戻す必要があります。