ビリに与える奨学金


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 ヨーロッパでは大学を“象牙の塔”という。「物欲と現実的な利害を離れて真理を探究する大学の学問世界が象牙のように清く孤高だ」という意味だ。19世紀フランスの批評家サントブーブがロマン派の詩人ビニーの詩を批判して、初めて使った。ビニーの詩が観念的で非現実的だという意味だったが、次第に学者たちが学問を研究する研究室、または芸術至上主義の人々が俗世を離れてひたすら芸術だけに興じる立場を皮肉る言葉に変わった。

 わが国では全く異なる意味で“牛骨塔(ウゴルタプ)”という言葉が使われる。大学に通うため、田舎で牛を売らなければならなかった時代を皮肉る言葉だ。1969年、私立大学が定員外入学を許して金儲(もう)けに血眼になると、ある国会議員は「私立大学こそ牛の骨で建てた牛骨塔ではないか」と怒鳴りつけて、大学の設立者たちには「あなた方が学園で不当利益を図る輩(やから)でなくて何者か」と追及した。田畑はもちろん大切にしていた牛まで売って子供を大学に送ると、大学は授業料で聖塔のような建物を築き金儲けだけに汲々(きゅうきゅう)としているという指摘だった。

 昔も今も大学に通おうとすると苦労する。天井知らずに上昇する授業料のためだ。大統領選挙のたびに“授業料半額”がお決まりのように公約になるのは理由があるのだ。高い授業料を回避する方法がある。それは奨学金だ。成績は優秀だが経済的な理由で学業に困難が生じている学生を援助するのが原則だが、かなりの額は勉強のできる裕福な家庭の学生がもらってゆく。富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなるというわけだ。

 これに反旗を翻した団体がある。作文と写真・美術治療を行いながら地域の児童を支援する「旅行と治癒」が最下位にも奨学金を与えるキャンペーンを行っている。またの名は「勉強ができなくても奨学金」。恩恵が与えられる資格は第一に「必ず勉強ができないこと」、第二に「適当にいい子でもいい」。フェイスブックのメッセージで参加を呼び掛けて“十匙一飯”(十匙で一人分の飯になるという意味の熟語)基金を調達する。2回目となる今年は済州の涯月(エウォル)初等学校トロック分校場と納邑(ナブップ)初等学校に100万ウォンが授与された。

 貧しい地域の大人たちの心温まる奨学金もソル(旧正月)を控えて話題になっている。光州広域市の代表的な貧民街である良3洞の住民たちが1万~5万ウォンずつ募金して10年間、地域の子供160人に2700万ウォンを与えた。個々人に回る金額は小さいが感動は大きい。もらう人も与える人も皆、感動が大きいようだ。今度のソルにはお年玉を奨学金として与えてみたらどうだろうか。

(2月17日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。